新しい生活
小鳥のさえずりを合図に目を開けた。
お互いの吐息が顔に触れるほどの距離に、美しいマーリネイト嬢の寝顔が転がっている。それでも僕は動じることなく、呑気に眠い目を擦りながら大きなあくびをした。
僕らの体を包む柔らかで温かな毛布をほんの少しだけ持ち上げると、僕以外の男は絶対に見たことはないし、見ることが出来ないであろう、彼女の艶やかな裸体が横たわっている。
昨晩のことは、よく思い出せない。僕も服は着ていないことから、事を終えた後にそのまま眠ったのだろうとは思う。
再びマーリネイト嬢の寝顔の方に視線を戻すと、彼女は可愛らしい寝顔を浮かべて、すうすうと穏やかな寝息を立ててまだ眠っている。
ついつい彼女の頬や頭を撫でたくなってしまうが、あと少しで彼女の頬に触れるというところで僕は踏みとどまり、手を引っ込めた。
今更何を躊躇っているんだと思ったが、この触れれば塵となって崩れ風の中に消えていきそうな儚い美しさを放つ芸術品には、眺めるだけで留めておきたかった。
彼女の安眠を邪魔しないようにそっと毛布から抜け出し、ベッドの近くに落ちていた服を拾って、それに着替える。服の袖から自分の手が抜けて出てきた時に、手首に濃く残っている縄の痕が目に入る。そこに自分を縛る物は何もないのに、痕がちくりと痛んだ。
着替えが終わってすぐに、部屋の扉が叩かれた。まだ眠っているマーリネイト嬢を気遣い、自分から扉を開けに行くと、その先にはタリスさんがいた。軽く頭を下げると同時に、彼女の耳にぶら下がっている耳飾りから、鈴の涼しげな音が小さくちゃらんと鳴った。
「おはようございます。朝食の準備ができました」
「ああ、わかった。すぐに行くよ」
「……マーリネイトさんは、まだ眠っているみたいですね」
「まだぐっすり寝てるよ。夜更かしが続いてるせいでね」
「そうですか。ではレドフィルさんは先に食堂へ向かってください。私はマーリネイ
トさんを起こして、身支度のお手伝いをしてからいきますので」
「いいの?」
「はい」
それならばということで、タリスさんにこの場を任せ僕は屋敷の食堂へと向かった。
「だいぶ馴れましたね」
食事中、マーリネイト嬢からそんなことを言われた。
僕の左隣に座って朝食後のお茶を飲んでいる彼女は、朝の身支度をしゃんと整えてはいるものの、まだ少し眠そうな目をしている。
僕は食事の手を止め、口の中に残っている食べ物をごくんと飲み込んでから、話し始めた。
「そりゃあ、馴れるよ。自然とね」
「屋敷での生活はどうですか?」
少しだけ考える。
「楽しいよ、思っていた以上にね」
屋敷での軟禁生活。それが僕に与えられた罰だった。僕が外に出ることは、たとえ行き先が屋敷の畑であったとしても許されない。外の空気は開けられた窓からしか吸えない。
こんな窮屈な生活は嫌だとマーリネイト嬢に直接言ってやったことがあるのだが、
「私はこういう生活を何年も続けてきたのですけど」
と返されてしまい、僕は言葉を失った。それはあまりにも卑怯な返しではないだろうか。
だが、実際に周りの皆が思うような罰は与えられていない。手首を縛っていた縄もおとなしくしていればすぐに外してもらえたし、屋敷の中であれば自由に動くことは出来る。
軟禁生活の始まりにマーリネイト嬢自身がそう言っていたように、この生活は、僕にとっての「罰」ではなく、僕と彼女の二人のための「夫婦生活の練習」もしくはその模倣なのだ。
「レドフィルは今頃、あの屋敷の中で不自由な暮らしをしているのだろうか」みたいなことを考えている優しい人間には──この町にそんな人間はほとんどいないと思うが──申し訳ないが、僕は至って健康に日々を過ごしている。
「ならよかったです。何か必要な物だとか、不便だなと思ったことがあれば、遠慮なく、すぐに伝えてくださいね」
「……すぐに思いつくような物はないかな。着替えとか日用品とかはなぜか一通り揃ってるし、食事も満足なだけ食べられる。寝心地の良いベッドの上でぐっすり眠れる。ネイトさんがずっとそばにいるから話し相手に困ったことはない。本をたくさん読むようになったおかげで、ちょっとだけ頭が良くなったような気もする。
ちょっと前の僕からしたら、人並みか、もしくはそれ以上に充実した暮らしをしていると胸を張って言えるよ」
僕の返答を聞いてマーリネイト嬢はにっこりと笑った。そしてそのまま彼女は僕の左腕にぎゅっと抱きついた。ぐりぐりと腕に顔を押し当てる様子には、甘えてくる小動物のような可愛らしさがあり、やはりその髪や頬を撫でてあげたくなる。
彼女の顔のつくりや表情の移ろいを見つめて惚れ惚れとしながらそう思うだけで、実際に行動することはないのだが。
「そうだネイトさん。実は、今読んでる本がもうすぐ読み終わりそうでさ」
「まあ! では、今日の夜が楽しみですね!」
「感想会ももちろん楽しみなんだけど、また何か僕にも読めそうな本があったら教えて欲しいかな。次はもっとこう、読み進めるのが止まらなくなるような、わくわくしっぱなしの、そういうのが読んでみたい。読める字もだいぶ増えてきたしね」
「お任せください。必ずレドフィル様に気に入っていただける本を選んでみせましょう」
自信に満ち溢れた口振りのマーリネイト嬢を見ていると、自然と口元がゆるんだ。
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