よろしく

 「さぁさレドフィル様、どうぞこちらへ。町中を走り回ってお疲れでしょう。まずは座ってゆっくりと心と身体を休ませて、それからお話をしましょうか」


 屋敷へ入るなり僕はマーリネイト嬢の部屋へと招かれた。そして部屋の床を踏んですぐに、ベッドに腰かけるよう促される。気は進まないが、彼女の言う通りにしないと話が進まないようなので、僕は渋々ベッドの端っこに腰を下ろした。


 部屋の出入り口の前にタリスさんが道を塞ぐように立っているのを横目に確認した後、僕はふぅと細く長く息を吐いた。

 

「レドフィル様」


 マーリネイト嬢に名前を呼ばれて顔を上げると、彼女は何の躊躇も恥じらいもなく、互いの体が向き合うような形で僕の膝の上に座った。こんなにも近い距離で彼女の顔を眺めたのはいつぶりだろうか。


 じっと視線を交えた後に、彼女は僕に抱きついた。無視できないほどの密着具合と、太腿にのしかかる彼女の柔らかな重みに、思わずドギマギとしてしまう。

 耳のすぐ隣で彼女がすんすんと鼻を鳴らす音が聞こえた。


「絶対汗臭いと思うんだけど」


「いえちっとも。むしろレドフィル様の存在を濃く感じられるので、永遠にこうしていたいくらいです。

 あぁ、とってもいい匂い……」


 それでも気になるものは気になるんだよ、と今すぐにでも彼女を膝の上からどかしたかったが、両手が使えない今はどうにもできない。甘く蕩けた彼女の囁きと深い呼吸音を一番近くで聞きながら、僕は強張っていた肩から力を抜いた。


 抵抗することなくマーリネイト嬢が満足するまで待っていると、マーリネイト嬢は僕を抱く腕の力を緩めた。


「さて、もう少しだけレドフィル様を堪能していたいところですが、そろそろ本題に入りましょう」


「話を進めてくれるのは嬉しいんだけど、その前に、この縄は解いてほしいかな。不便だし、ちっとも落ち着かないんだ。だから────」


「嫌です」


 可愛らしい微笑みを浮かべたマーリネイト嬢に、食い気味に否定された。


 僕はそっぽを向いて、また溜め息を吐いた。


「それで? まずは『指輪を盗んでごめんなさい』って謝った方がいいかな?」


「いいえ、その必要は全くありません。レドフィル様が本当に盗んでいったのは、指輪ではなく私の心ですので」


「どっちにしろ盗んだ覚えはないかな。『盗まれた』と君が勝手に勘違いしているだけだよ」


「ともかく、謝るべきなのはレドフィル様ではなく私の方ですね。指輪を盗まれたなどと嘘の話を広め、レドフィル様をここまで追い詰めてしまったこと、とても深く反省しております。

 レドフィル様を屋敷に連れてくるためだけにここまで手荒な真似はしたくはなかったのですが、こうするためにはああするしかなかった、ということでお許しください」


 僕を屋敷に連れてくることが目的であれば、「屋敷に来て欲しい」と僕に一言伝えるだけでいいのだから──それで僕が本当に屋敷に行くのかは、また別の話だが──、ここまで町中を賑やかにする必要はない。マーリネイトお嬢様の屋敷で盗みがあったと聞かされて、町中が大騒ぎ。全員がマーリネイトお嬢様のためにと必死こいて働いたのに、実はその全てが嘘の話。笑い話にできるかどうかすら怪しい。


 指輪は盗まれていないし、僕はまったくの無実。いい迷惑である。


 「どうしてこんなことをしたんだ」と激しく問い詰めたいところだが、僕は酷く落ち着いた様子で、彼女を見つめ返していた。

 

「ではですね。レドフィル様にはしばらくの間、この屋敷で私と一緒に暮らしてほしいのです。私たちは夫婦として同じ屋根の下で生活を共にする関係になるのですから、その時のための練習として」


「だったらなおさら、この手首の縄は解いてもらわないといけないような気がするんだけど」


「それとこれとはまた別の話です。いつかは解いてあげますから、もう少しだけ我慢してください」


 悲しい話だが、縄の締め付け具合にもだいぶ慣れてきて、元からそうであったように体が馴染んできた。マーリネイト嬢の言う「いつか」がすぐなのか、だいぶ先の話なのかは見当もつかないが、ある程度の期間であれば我慢出来そうだなと考えてしまった自分がなんだか情けない。


「というか、今の話を聞いた限りだと、まるで僕らがもう結婚している前提で話が進んでいるような気がするんだけど」


「あぁごめんなさい。私ったらつい浮かてれしまって」


「いや、気にする必要はないよ。だっていつかは本当にそうなるんだろう? だったらもう、僕らは夫婦ということにしようじゃないか。

 それに僕はもうね、ネイトさんに結婚をお願いされても、キスをしてほしいとせがまれても、夜を同じベッドの上で過ごそうと誘われても、なんでも受け入れる覚悟は出来てるからさ」


「…………そう、ですか」


 こうなることを以前から強く望んでいたはずなのに、彼女の反応はいまいち。喜んではいるようなのだが表情が硬い。


 飛んで跳ねて、きゃあきゃあとはしゃいで、僕をベッドに押し倒してくるくらいの過激な反応は覚悟していたのだが、不気味なほど予想外な反応を返されて、僕は思わず首をかくんとかしげた。


「ネイトさん?」


「あぁ、いえ、なんでもありません。少し、その、達成感とやらに浸っていたので、ボーッとしていたようです。そんなことよりも、私たちはこれからお互いに愛し合う仲になるわけですし、まずは挨拶をですね────」


 マーリネイト嬢の手が、僕の頬に添えられる。彼女が何をする気なのかは、彼女の目を見るだけですぐにわかった。彼女の熱い視線が僕の顔のどこに向けられているのかも。


 僕はそっと目を閉じ、軽く唇を突き出す。閉じた瞼の向こう側で、彼女の顔が揺れ、迫る気配がした。


 唇と唇の先がほんの少し触れ合うだけのキス。


 今の僕らには、少し上品すぎる。

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