「さよなら」に祈りを込めて

 走りながら振る腕に、箱の重みがのしかかる。前に振り出し、後ろに振り戻す。その単純作業ひとつに、こんなちっぽけな重りが追加されるだけで、どうしてこうも苦しいのか。


 時折ちらりと後ろを向き、自身の背後に追手が来ていないか確認する。幸いにも、町中に逃げ込んだおかげか、人混みに紛れて上手く撒いたようだ。しばらくは友人たちに僕の予定を邪魔されることはないだろう。しかしまだ気は抜けない。道の脇に立ち止まって、荒い呼吸を整えながらほっと胸を撫で下ろすには、まだ早い。


 渇き始めた喉にわずかな唾液を流して、僕はまた走った。


 僕が今置かれている状況は、なんとか必死に僕の拙い語彙をかき集めて、なるだけよく伝えようとしても、出てくる言葉は、「時間切れ」、ただその一言に尽きる。


 いつかでいいや。今じゃなくてもいい。決断を渋り、先延ばしにしてきた結果がこれだ。マーリネイト嬢がついに動き出した。これからの僕を待ち受けるのは破滅か、それ以上に悲惨な結末か。


 そうだとしても、これだけはやっておかねばならない。


 やっとの思いで酒場にたどり着いた僕は、店前の掃除をしていた彼女の名前を、掠れた声で叫んだ。暗く沈んだ表情の彼女の顔に一瞬だけ明るい色が戻る。


「レドフィル! どうしたの、そんなに……」


 荒い呼吸を必死に整えながら、回らない頭で考えを巡らせ、唾液を一滴喉を大きく鳴らしながら飲んで、僕は話し始めた。


 その話の切り出し方は、後世に名を残すほど自分勝手なものだった。


「いいかエミ、僕は今から自分勝手にあれこれと君にわがままを押し付ける。それを聞いて君がどう思うかは僕の知ったこっちゃない。とにかく僕のわがままには全部首を縦に振ってほしい。いいね?」


 戸惑いを隠しきれないように目をじたばたと泳がせながらも、エミは頷いた。


「う、うん。でも、その前に何が起こってるのかだけは少し説明を────」


「エミは、マーリネイトお嬢様のお屋敷で盗みがあったって話は聞いてるね?」


 彼女は黙ってまた頷いた。瞳の潤いが揺れている。


「ありゃあ全部僕のせいだ。でも僕は盗みなんかしていない。全部はマーリネイトお嬢様の計画、作戦、まぁこの際なんだっていい。とにかくあの子の仕業だ。言っても信じてもらえないだろうけど、とりあえずエミにはこれだけ言っておく。

 そして、今の僕は上手いこと騙されたせいで、無実の盗人として追われる身だ。だからもう君とはもう二度と会えないかもしれない。だから今のうちに、これを渡しておこうと思って」


 落ち着かない様子のエミの手をやや強引に掴み、手のひらの上に箱を乗せる。そして、絶対に箱を落とすことがないよう彼女に両側から包み込むように箱をしっかりと持たせる。


 その箱が何であるかを思い出したのか、エミはハッと息を呑んだ。


「これ、レドフィルが貯めてたお金の────」


「全部エミにあげる。僕にはもうこんなもの必要ないから。やっぱり僕なんかにはこんなもの贅沢すぎたんだ。エミの好きに使いなよ。君の好きそうなお洒落な服くらい買えると思うから」


「えっ、いや、でも」


「いいから黙って受け取って」


 仮面を貼り付けたようなぎこちない笑顔を浮かべて、エミに箱を押し付ける。戸惑いと申し訳なさをごちゃ混ぜにした微妙な表情のエミが、両手にしっかりと箱を持って、僕を見つめている。


 エミがまだ状況を掴めていないうちに、次の自分勝手な要求を叩きつける。


「それから。エミには僕のことを忘れてほしい。僕みたいな臆病者のクズ野郎のことなんか忘れて、僕以外の別の誰かと、全く違う幸せを手に入れてほしい。そのかわり、僕は絶対にエミのこと忘れないから」


「はぁっ!? ちょ、いきなり何言ってんの!? そんな無茶苦茶なこと言わないでよ!」


 明らかに見てとれる激しい動揺。訳もわからない内にいきなり僕の全財産を渡された時以上の、落ち着きのない、僕の正気を疑っている瞳が僕をしかと見据えている。


 だが僕は決して狂ってなどいない。狂人のふりをしているつもりもない。正気だ。


「無茶苦茶なことを言ってる自覚はある。でも、今はそうするしかない」


「そうするしかないって、嫌だよ私、レドフィルのこと忘れるなんて。そもそも忘れるなんて、そんなこと出来るわけないのにさぁ」


 涙ぐんで震え始めた声を、僕は聞かなかったことにした。彼女の涙ごときで、この決意が決して揺れ動くことはない。


 その決意は、何も語らずともエミに通じたのか、彼女は呆れたようなため息をひとつ吐いた。


「なに、その腹の据わった顔。今更すぎるよ。やっとそういう顔してくれたと思ったら、何があったのかちっとも教えてくれないし、お金は押し付けてくるわ、しまいには自分のことは忘れろだなんて勝手なこと言うわ、もう本当にろくでもない。これから死ぬつもりなの? 本当、わけわかんない。

 なんで私、こんな人のこと好きになったんだろう」


「ごめん」


「謝るくらいなら、とっとと私の前から消えてよ。忘れてほしいんでしょ」


 エミが箱をしっかりと持っていることをさりげなく確認して、僕はエミから少し離れた。


 やかましくなり始めた町の喧騒も無視して、彼女は深く静かに俯いている。二人だけの沈黙がしばらく続いた。


「じゃあ、そういうことで」


 近づきつつある追手の気配から逃れようと、つま先にぐっと力を入れた瞬間だった。


 ふらりと、エミが力なく僕の方へ倒れ込んだ。もちろん僕がそれを無視できるわけもなく、エミの体を咄嗟に支えてあげた。抱き寄せられた彼女は、僕の服をぎゅっと掴み、僕の胸板に顔を押し付けている。


 引き剥がそうにも、それが出来ない。


「エミ。僕、行かないと」


「わかってる。わかってるけど」


 あぁ、何もかもが遅かった。こうなる前にああすればよかったと、悔いるばかりだ。全ては僕がハッキリと決断出来なかったのが悪いんだ。そう、全部僕の所為なんだ。


 またしばらくの沈黙を置いて、最後に、エミは僕の体をトンと押して僕を優しく突き放した。そして僕が表情を確認する隙も与えず、彼女はくるりと後ろを振り返り、「早く行って!」と小さな肩を震わせながら叫んだ。


「もう二度と、あんたの顔なんか見たくない」


「……ありがとう」


 さようなら。僕が好きだった人。君のことは決して忘れない。


 僕はこれから死にに行きます。実際に死ぬわけじゃないけど、これから僕が向かう場所はそれに近い場所だ。


 どうか君が僕のことを忘れて、別の幸せを手にすることを祈っているよ。


 ささやかな祈りをその場に残し、僕は駆け出した。

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