第六章

旗が立つ

 そこは程よく古びた、新しすぎることも古すぎることもない、男性一人が余生を過ごすには充分な機能と部屋数を備えた一軒家だった。


 街の中心部にある市場からはそこまで距離がなく、買い物に不自由することはない。おまけに人の賑わいからもうまい具合に外れた通りに面しているため、必要以上にやかましくなることもない。


 ここがタミヤさんの新しい家となる。僕が住んでいる家より、ずっと住みやすい家なのは間違いない。隙間風に凍えるなんてこともなさそうだ。


 マルタポー氏が大切な用事とやらのために屋敷を離れてから数日が経った。


 今のところは全て予定通りに事が進み、今日はタミヤさんの引っ越し作業の手伝いをすることになっていた。ベッドや椅子やテーブル、それから食器類などの家具を一通り部屋の中に運び込み、後は追々タミヤさんが生活していく中で細かな家具の位置の調整などをしていけばよいだろうというところまで作業を終えた。


 作業に区切りがついたところで、「せっかくだから」とタミヤさんに誘われ、新居にて早速、僕はタミヤさんとお茶を飲むことになった。


 タリスさんが淹れてくれるお茶の味にも舌がなじみ始めた頃だったが、やはりタミヤさんの淹れるお茶の味の方が妙にしっくりくる。もちろんどちらも美味しいお茶であることは保証する。それでも一度慣れた味はそう簡単に忘れられるものではない。


 周辺の雑音に耳を傾けながらお茶をすすり、目立った会話もなく、一杯分のお茶をもう間も無く飲み終えるあたりで、僕は「そういえば」と話を切り出した。


「今日が引っ越しの手伝いの日だってことは覚えていたんですが、うっかり引っ越し先の家が町のどこにあるのかを聞くのを忘れていたんです。それで、タリスさんかネイトさんに聞けば教えてもらえるだろうと思って、今朝、ここに来る前に一度屋敷の方に寄ったんです」


「ふむ」


「タリスさんがこの家の場所の簡単な地図を描いてくれて、それを頼りにここまで来たんですが────」


 懐にしまっていたその地図を取り出し、タミヤさんにも見せながら、僕はその時のことをゆっくりと振り返った────。




 ◯




「下手っぴな地図でごめんなさい。あんまり絵は得意じゃなくて」


 タリスさんが描いてくれた地図は、とても精巧なものとは呼べなかった。しかし、町の通りや周りの目印になりそうなものがしっかりと描かれており、僕は瞬時に「あの場所か」と思い出す事ができた。それどころか、この屋敷を出てどの道を通っていけば、最短距離でタミヤさんの新居に辿り着く事が出来るのかも導き出した。


「これだけわかれば大丈夫だよ。ありがとう」


 タリスさんは静かに頭を下げた。


 そのまま踵を返し、タミヤさんが待っているであろう場所に向かおうとした時、タリスさんに「あの」と切なげな声で呼び止められた。


「マーリネイトさんには、今日も会っていかれないんですか」


 返す言葉に困り、頬を指で掻く。


「僕はこれからタミヤさんの手伝いに行かないといけないんだ。だからあんまりのんびりしてる暇はない」


「ほんの少しだけでも、レドフィルさんのお顔を見せてあげれば喜ぶと思うんですけど……」


「そうだとしてもだよ。今の僕には、ネイトさんと会うよりも優先することがあるんだ」


「そんなぁ」


 わかりやすく落ち込んだ表情を浮かべながら肩を落とすタリスさん。


 彼女のこういう一面を見ていると、タリスさんは良い意味で『使用人っぽさ』がないなと感じる。仕事として主人に仕えているというよりか、自分は誰かのお世話をするのが好きだから、誰かの役に立ちたいからという素直な気持ちで仕えているような感じがする。


 屋敷の外の世界に縁遠く、『友達』という存在について疎かったマーリネイト嬢にとって、これ以上ないほどお似合いの使用人がやってきたと言えるだろう。


 そんなことを呑気に考えていると、うなだれていたタリスさんが、不意に顔を上げ、背筋をピンと伸ばして姿勢を正した。どこかで見覚えのあるその一連の動作を見て、僕の頬がぴくりと震えた。


 反射的に大きく見開かれていた瞳は深い呼吸と共に閉じ、またゆっくりと開かれた。

 

「鈴の音が聞こえました。私はマーリネイトさんのところに向かいます」


「あぁ。それじゃあ……僕はこれで……」


「お気をつけて」


 そこでタリスさんとは別れたのだが────。僕の回想はここで終わる。




 ◯




「それが、どうかされましたか?」


「これが僕の思い違いだったなら、それでもいいんですけど、あの瞬間のタリスさんは、様子が変だったんです」


「ふむ……。それは私が思うに、『鈴の音が聞こえた』とタリス本人が言っているのですから、おそらくは鈴の音を聞いて、気持ちを上手く切り替えられた証拠ではないかと。物事に集中している人間の表情は、周りから見ると、どうしても怖いものに見えるものですからな」


「そうだとしても、あの、人を見つめるだけで凍らせることも出来そうなタリスさんの冷たい目つきは、普段の彼女の様子からは想像ができなくて……」


 膝の上に乗せていた拳に自然と力が入る。


「では、レドフィル様には、タリスの様子がおかしくなったのには別の原因があると?」


「…………心当たりなら、ひとつだけ」


「それはどんな」


 口の中に溜まったネバついた唾液をごくりと飲み込む。


「ネイトさんと一度だけ。鈴の魔法についてのことで話をしたことがあるんです。この魔法は、応用が効くんじゃないかって。使い方次第では、その人を自分の思うように変えられるんじゃないかって話をしました。その時の僕は、全部自分の利益だけを求めてネイトさんにこの話をしました。僕は自分のダメなところを直したい、だからこの魔法を使って僕を変えることはできないだろうかと思って。

 ネイトさんは『本来の目的以外には使いたくない』って言っていたけど、もしかしたら────」


「マーリネイトお嬢様が、あの鈴の魔法を『本来の目的』以外のことに、利用しているのではないかと。そういうことですかな」


「具体的にどういうことをしているのかまではわかりません。ですが、『特訓』という名目で、ネイトさんが裏で実験をおこなっているのではないかと、そんな気がするんです」


「なるほど」


 タミヤさんは眉間に皺を寄せた悩ましげな表情を浮かべて、腕を組み、椅子の背もたれに背中をよしかからせた。


「タミヤさんは、どう思いますか」


「…………私からは何も。今のレドフィル様の意見は、一見すると筋が通っており真実を語っているように見えますが、実際はレドフィル様の体験や感覚に基づく憶測でしかなく、その意見に対して賛同するか否かは、人によるでしょう。

 屋敷を離れた身ではありますが、やはりマーリネイトお嬢様がそのようなことをするとは、私は思えませんので」


「……まぁ、そうですよね。すみません、変なことを聞いて」


「お気になさらず」


 タミヤさんはカップに残っていたお茶を飲み干すと、僕に「おかわりはいかがですかな」と尋ねた。僕はこくんと頷いて、「お願いします」と呟いた。


 鈴の魔法について知識があり、自分の娘が関わっているとなればタミヤさんは自分の見方をしてくれるのではないかと思っていたのだが、物事はやはりそう上手いこと進まない。友人たちを頼るわけにも行かないし、──そもそも、彼らを頼ったところで、返事は「マーリネイトお嬢様がそんなことをするわけがない」と決まっているのだから、友人の力を借りようとは微塵も思わなかったのだが──、生憎マルタポー氏は不在で、タミヤさんもこの様子だ。エミならもしかすれば……いや、彼女を巻き込むわけにはいかないし……。


 どうやら僕の味方は、僕一人だけらしい。

 心細い。

 朝起きてから夜眠るまで、働いていても休んでいても僕の背中に取り憑いているような気がするこの嫌な予感に立ち向かうには、あまりにも心細い。


 何かが起きるんじゃないかと不安に思うだけで、全てが綺麗に片付いてくれれば何も文句はないのだが────。

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