不釣り合いな指輪

 何か起こるのではないかと身構え続け、何も起きないまま幾度の昼夜を繰り返した。決断は未だ出来ていない。


 ここまで来ると、何も起きないことの方が恐ろしく感じてくる。僕がただそのことについて知らないだけで、自分の知らないところで何かが起こっているのではないかと、そして町中の人間が結託してその「何か」に関する情報を徹底的に封じ込めているのではないかと強く疑ってしまうほど、僕には「今」が恐ろしい。


 本当に何も起きていないのであれば、全ては僕の要らない心配に終わるのであれば、それに越したことはない。むしろ、そうであれ。そして僕が決断を下せる日までこのままでいてくれ。


 だが、その願いは、指先で軽く触れただけでボロボロに砕かれ、崩れ落ちてしまうほど非常に脆い。「彼女」が僕の家を訪ねて来たその瞬間、僕はもう後には戻れない場所にまで引き摺り込まれてしまったのだろう。


 薄く朝靄が立ち込める肌寒い早朝のことだ。不安に毎夜襲われている僕の眠りは浅く、日が顔を見せ始める少し前には既に目を覚ましてベッドから抜け出していた。眠ろうにも眠れず、外を出歩く気にもなれず、もうどうすることも出来なくなって、薄暗い部屋の真ん中でポツンと椅子に座って、朝方の孤独感に慣れようとしていた。


 どうしたものかと頭を悩ませていると、僕の家の玄関扉が叩かれた。郵便配達人が町を周り始める頃合いかと思い、玄関扉を開けると、


「…………タリスさん?」


「おはようございます。レドフィルさん」


 タリスさんを模した動く石像か精巧な人形が喋っているのではないかと思うほど、抑揚のない声で彼女は僕に行儀良く挨拶をした。


 朝日を受けて輝く金色の髪をそよ風の中に漂わせる、すっかり屋敷の使用人として成長しきってしまったタリスさんがそこに立っていた。彼女は小さな袋を胸の前で抱えている。


 そして彼女は相変わらず、僕の不安を煽る冷たい目つきをしている。タリスさんをタリスさんたらしめていた「彼女らしさ」も、瞳の中の仄暗い虚に吸い込まれて消えてしまった。


「こんな朝早く、どうしたの」


「少し遅くなりましたが、父が引っ越し作業のお手伝いや、屋敷の畑の管理などを自分の代わりに行なってくれているレドフィルさんに、日頃の感謝の気持ちを込めて、お礼の品を贈りたいと」


 僕の視線が、タリスさんが抱えている袋の方へと一瞬移る。


「……タミヤさんは?」


「父はつい先日腰を痛めたらしく、外を出歩けるような状態ではありませんでしたので、私が代理で来ました」


「それはお気の毒に。すぐに良くなるよう祈っておくよ」


「ありがとうございます。それではこちらをどうぞ」


 そう言って、タリスさんは抱えていた袋を僕に渡した。


 僕へのお礼の品が入っているという袋を渡し終えると、タリスさんは小さく頭を下げた後「では」と短く言葉を残し、早々にこの場を立ち去ろうとした。引き止める理由もないため、僕はタリスさんに「ありがとう」とだけ感謝の言葉を送り返した。


 タリスさんが最初の一歩を踏み出した時だった。振り向き様に金色の髪が大きくなびき、タリスさんの整った形をした耳の姿をあらわにした。髪に隠されていたせいか気づかなかったが、彼女の耳には耳飾りがぶら下がっていた。職人の経験と技術が込められた装飾が施されている耳飾りが、朝日を受けてきらりと輝いた。


 その耳飾りが揺れた瞬間に聞こえた「ちゃらん」という涼しげな音を、僕はどこかで聞いていた────ような気がした。


 家の中に戻り、受け取った袋の中身を確認すると、中には「小さな箱」が入っていた。


 早速僕は小さな箱を手に取った。


 角が丸みを帯びているその四角い箱は、僕の両手のひらでなんとか覆い隠せないこともないくらいの大きさで、とても軽い。黒色の塗装がされた箱の表面は何らかの加工が施されているのかつるつると滑らかで触り心地が良い。


 箱に蝶番が取り付けられていることに気づいた僕は、ゆっくりとその箱を開けた。


 箱の中には指輪が収められていた。煌びやかな光を放つ小ぶりな透明の宝石が嵌め込まれた指輪を慎重に箱から取り出し、朝の陽光にかざしてみれば、それは一層輝きを増し、薄暗い部屋の中に浮かぶ小さな太陽のようにも見えた。


 美しいことは美しいのだが、それを見ていると僕はどうしても溜息を我慢できなかった。ハァと僕の口から吐き出された重たい空気は、部屋の床目掛けてゆっくりと沈んでいく。


「こんなもん、もらったってなぁ……」


 困り果てたぎこちない笑みを浮かべながら、僕は指輪を指にはめることもなく箱の中へ戻した。


 僕にこんな豪華なものは似合わないし、そもそも身分と不釣り合いだ。この指輪の価値が、タミヤさんがどれだけ僕に感謝しているのかの気持ちの量を表しているのだとしても、あまりにも大袈裟すぎやしないだろうか。こんな高価なものを僕が身につけていたら、「盗んできたのか」と勘違いされてしまうかもしれない。


 タミヤさんからの気持ちはしっかりと受け取りつつ、この指輪は大事にしまっておくことにしよう。 

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