「忘れて」

 微笑みで誤魔化さないその強気な態度が、マーリネイト嬢が今先ほど口にした言葉の信ぴょう性を高めていた。彼女のまんまるな瞳に、椅子から少し腰を浮かせている酷く怯えた様子の僕が映り込んでいた。


「エミのことを忘れろって、そんな無茶な────」


「レドフィル様はまるで、自分がこれからどうしたいのか、どういう人生を歩んでいきたいのか、私とエミ様のどちらを選ぶのかをハッキリと決めたような雰囲気でいらっしゃいますが、私から見れば、レドフィル様の心の中にはまだ迷いや未練がある様子」


「そんなことはない。僕はちゃんと、僕なりに色々考えて、ネイトさんとの結婚について前向きに……」


「ではなぜ、レドフィル様はそんな濁った瞳をしているのですか?」


「濁った瞳……?」


 マーリネイト嬢はカップに残っていたわずかなお茶を喉へ流すと、またゆっくりと喋り始めた。


「私は、レドフィル様の瞳が好きでした。曇りや陰りのない、ただひたすらに純粋無垢なあの瞳が大好きでした。荷車に乗せられている野菜たちに向けられていたあの一途な視線を私にも向けてくれないだろうかと願い、私はレドフィル様に恋文を書くことを決めました」


「…………」


 マーリネイト嬢は喋る姿勢を少し変え、背中を椅子の背もたれに深く預け、右足を上にして足を組み、指を組んだ手を右膝の上に乗せた。


「ですが、レドフィル様の瞳には、あの時と比べると、魚も唾を吐いてその場から逃げ出しそうなほどのかなり酷い濁りが溜まっているのです。そんな瞳に見つめられながら結婚のお願いをされたところで、私はちっとも嬉しくありません。

 では、その濁りの源はなんだろうかと考えた時に、その原因となりうるのはエミ様しか考えられません。あのお方がレドフィル様をたぶらかし、道に迷わせ、清らかな心と肉体を穢した! こんな悪女のことを許せるはずがありません!」


「…………」


 震えた声で感情的に言葉を重ね続けるマーリネイト嬢のことを、僕は目を逸らさずに見つめていた。


 エミが「悪女」だと言うのなら、君はどうなるんだろうかと一言物申してやりたい気分だったが、なんとか沈黙を貫いた。固く握った拳がかすかに震えている。


「ではなにか。僕の瞳から濁りとやらを消し去るためだけに、エミのことを忘れろって言いたいのかな?」


「そちらに関しては少々言葉が足りませんでした。『忘れてほしい』と言っても、エミ様と初めて出会ってから今日に至るまでの全てを無かったことにしろとまでは言いません。私は、レドフィル様には私のことだけを見ていてほしい、たったそれだけのことをお願いしているのです」


「『それだけのこと』って……。またそんなわがままばかり言って」


 呆れたようにため息を吐きながら、後頭部の髪の毛をわしわしを掻き乱す。


「悪いけど、僕の頭はそんなに都合の良いつくりをしてないんだ。記憶の好きなところをかいつまんでどこかに放り捨てるなんてことは出来ないし、エミとの付き合いは君よりもずっと長いから、簡単に忘れることは絶対にできないだろうね。

 それに、僕は農家で、野菜を町に売りにいく仕事がある。酒場に野菜を売りにいくこともある以上、エミのことを無視することも、避けることも出来ない。だから、そのお願い事には従えないかな」


「……そうですか。まぁ、無茶なお願い事だとは承知の上で言いましたから、断られるのも想定のうちです」


「だから結婚については、もう一度改めて考えさせてほしい」


「いいですよ。むしろそうしてくれた方が私は嬉しいです。今ここでレドフィル様と正式に結婚の約束をしたところで、私はレドフィル様にとって『エミ様の代わり』にしかなれないような気もしますから」


「それはさすがに考えすぎ。エミはエミだし、ネイトさんはネイトさんだ。ネイトさんがエミの代わりになれるわけがない。その逆もそうかもしれないけど────」


「どうでしょうね。先ほどレドフィル様は『自分なりに考えて』とおっしゃっていましたが、本当にしっかりと考えたのですか? エミ様と交際や結婚は無理だと諦めて、仕方がなしに私と結婚を選ぶことにしたなどという、あまりにも自分勝手すぎる妥協の結果などではありませんか?」


「いや、僕はちゃんと考えた。自分の意思でネイトさんと結婚しようって決めた。妥協なんかしてない」


「…………そんな濁った目で言われても、信用できませんね」


 

 今までに見たことがないほど冷たく呆れているマーリネイト嬢の横顔を見ていると、僕の考え出した結論が間違っているような気がしてならない。マーリネイト嬢が言っていることの方が正しくて、僕が嘘を口にしているような気がしてくる。僕自身は必死に考えたつもりでいても、周りの人間からしてみれば考えが及んでいない部分の方が多いのだろうか。でも、僕は決して妥協なんか────。


「マーリネイトさん。お茶のおかわりをお持ちしましたよー」


 扉の向こう側からタリスさんの声が聞こえてきた。その声を合図にマーリネイト嬢は座り姿勢を正して、先ほどの物とは比べ物にならないほど優しく穏やかな声色で「どうぞ」と扉に話しかけた。


 今ここで僕とマーリネイト嬢がどんな話をしていたのかは何も知らない風に、いつも通りのニコニコと明るく楽しげな様子で部屋に入ってきたタリスさんは、僕とマーリネイト嬢のカップにそれぞれお茶を注いでいく。


 タリスさんがお茶のおかわりを淹れ終え、また部屋を出て行こうとした時にマーリネイト嬢が「タリス」と優しく声をかけ、彼女を呼び止めた。


「タリス、この後に何か用事はありますか?」


「いえ、特には何も。あるとしても、ご昼食の用意と……お屋敷のお掃除くらいですかね」


「そうですか。でしたら、父とタミヤが屋敷に戻り次第、私と一緒に町の方へ出かけませんか? 屋敷の外の空気が吸いたくなりまして。父もタリスが一緒なら私の外出を許可してくれると思いますし、いかがです?」


「わぁっ! ぜひぜひご一緒させてください!」


 元々明るく楽しげな表情にさらに浮き足立った華やかさが足された様子で、タリスさんは部屋を出て行った。


 バタンと部屋の扉が確実に閉まる音を聞いた後、僕はマーリネイト嬢の方に向き直った。


「今日はやけに外の空気を吸いに出たがるね、ネイトさん」


 気持ち控えめな僕の話し声を聞き逃すことなく、マーリネイト嬢は口に運びかけていたカップをテーブルの上に戻し、わざとらしく微笑みながら小首を傾げた。


「何かおかしいことでも?」


「今朝に外の空気を吸ったばかりなのに、また外に出たがっている。なんでかなと思って」


「それこそ考えすぎですよ、レドフィル様。私にとって屋敷の外の空気、特に町中でしか味わえ合い賑やかな空気は、滅多に食べられないご馳走のようなもの。『お腹がいっぱい』『もう何も食べられない』という至極満たされた状況でも、その食材だけはすんなりと喉を通ってしまう。

 いくら味わっても飽きることはなく、満たされることもない。私にとって屋敷の外の世界はそういうものです」


「お嬢様の考えてることはさっぱりわかんないな。物の見方や価値観が僕たち庶民と違いすぎる」


「いつかわかるようになりますよ。いえ。レドフィル様には何がなんでもわかってもらわないと困ります。絶対に」


 再びカップを手に取り口に運んだマーリネイト嬢は、お茶を静かに飲み始めた。ほぅっと熱っぽい吐息を漏らしながらカップから口を離すと、僕から目線を外し、じっと部屋の壁の方を──屋敷の間取りから考えるに、その壁の先には外の世界が広がっているはずだ──恋しそうに、そしてどこか悲しそうに見つめていた。


 絵画の世界から抜け出してきたようなマーリネイト嬢の様相に見惚れつつも、僕はカップの中からまだ白い湯気を立ち昇らせているお茶をぐいっと、口内と喉を焼く熱に耐えながら飲み干し、席を立った。


「そろそろ僕は畑に出る。何か用事があったら呼びにきて」


「わかりました」


 彼女は姿勢を崩さずにその場で返事をした。僕が部屋を出るまでずっと、彼女は椅子に座ったまま壁を見つめていた。

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