「忘れないで」

 「忘れないで」というエミの僕に向けたお願い事──ある意味では、企みとも言える──は、想像よりもずっと効果を発揮している。


 エミが僕の家を出て行った後の畑仕事も、マーリネイト嬢の屋敷に向かうまでの道の途中も、そして、屋敷の門の前で誰かがこの門を開けてくれるのを待っている間も、僕はエミのことが忘れられないのである。


 ただし残念ながら、頭の中に思い浮かんでくる光景は、彼女が僕の家を出て行く寸前の、の一瞬の光景だけである。あのほんのまばたき数回分の光景が、繰り返し何度も僕の頭の中に浮かんでくるのである。


 どうして僕は彼女と過ごした心弾むような楽しいひと時の光景がちっとも思い出せないのだろうかと、目頭を指でぎゅっとつまんだ。


 目頭から指を離し、顔を上げるとちょうど屋敷の玄関扉が格子門の向こう側で開くのが見えた。そこから出てきたのは、タリスさんだった。


 駆け足気味に門の方へ駆け寄ってきたタリスさんは僕に一言挨拶をし、多少もたつきながらも門の鍵を開け、僕を敷地内へと招き入れた。


「ごめんなさいレドフィルさん。気付くのが遅くなってしまって」


 普段であればタミヤさんがこうして出迎えてくれるのだが、あいにく今はどうやらマルタポー氏と共に外出中とのことだった。屋敷に残っているのはマーリネイト嬢とタリスさんのみ。屋敷から寂しさを纏った静けさが漂ってきているような気もしたが、今の僕にはこの状況の方が都合が良かった。


「タリスさん、体調を崩したって聞いてたけどもう動いて平気なの?」


「はい。昨日ゆっくりと休んだおかげで、だいぶ楽になりました。特訓の疲れが一気に出てしまったみたいです」


「ひとまず元気になったのなら良かった。それで────ネイトさんは、今どこに?」


「マーリネイトさんならお部屋にいるかと思いますよ。お部屋の場所は────」


「いや。案内は必要ないよ。何回かお邪魔したことがあるからね」


「そうでしたか。ではまた何かあったら、どんな小さなことでもいいので、いくらでも呼んでください。特訓の成果、お見せしますよ」


 タリスさんは腰に手を当てて大きく胸を張り、ふふんと自信ありげに鼻から息を吐き出した。


「期待しておくよ」

 

 屋敷の玄関をくぐり、ひとまずそこでタリスさんと別れた後、僕は寄り道せずにマーリネイト嬢の自室へと向かった。


 彼女の部屋の扉を、手の甲でコンコンと軽く叩き、扉に向かって「ネイトさん」と声をかけると、とっとっとと軽快にこちらの方へ駆け寄ってくる足音が扉の向こうから聞こえてきた。


 扉が開くと、そこにはいつもと変わらない様子のマーリネイト嬢が立っていて、にこやかな笑みを浮かべながら僕を迎えた。


「そろそろ来る頃かなと思っていました。さぁ、どうぞ中へ」


「お邪魔します」


 普段と何にも変わらないその様子が、やはり僕には不気味でならなかった。


 今朝の出来事なんてすっかり忘れてしまった、もしくはマーリネイト嬢とマルタポー氏が僕の家に来たことが実は夢だった、と思ってしまいそうなほど穏やかに事は進んでいく。


 そのままの流れで、僕とマーリネイト嬢はお茶でも飲みながら話をしようということになった。マーリネイト嬢は懐から鈴を取り出し、それを軽く揺らして音を鳴らした。


 ちゃらん、ちゃらん


 鈴の音を聞いて僕は首を傾げた。そして次に自分の耳を軽く触った。


「いつもの鈴の音と、なんだか音色が違う気がする」


「おや。さっそく気づかれましたか。この鈴は、タリスのためのものなんです。タミヤを呼ぶときに使っていた鈴は、別の場所に大切に保管してありますよ」


 彼女の言葉通り、鈴の音を聞き取ったタリスさんが部屋を訪ねてきた。マーリネイト嬢からのお願い事を聞き入れた後、タリスさんは部屋を出て行った。


「すごいな。もうここまで出来るようになってるなんて」


「確実に特訓による効果は出てきています。ですが、まだまだ改善の余地はあるかと。時折鈴の音を聞き逃してしまうこともあるようですし」


 もう十分なくらい使用人として働けるようにはなっていると思うのだが、あくまでも部外者の自分が必要以上に首を突っ込むのもおかしな話かと思い、喉の奥から迫り上がってきた言葉のあれこれは全て飲み込んだ。


 タリスさんが淹れてくれたお茶は、タミヤさんが淹れていたお茶とはまた違う香りがした。お茶淹れの経験の差によるものだろうか。


 唇を少しだけ濡らす程度にお茶を口に含み、舌の上でお茶の渋みを小さく転がした後、軽く咳払いをしてマーリネイト嬢の方を真っ直ぐと見た。


「ネイトさん、あの、今朝のことなんだけど、僕がきていた服の裏表が逆だってこと、よく気づいたね」


「いえいえ。あの時は、自分でもよく気づいたなと思っています。寝癖だらけのレドフィル様に見惚れていたせいでしょうか」


「おかげで他のところで恥をかかなくて済んだよ。教えてくれてありがとう」


「それなら良かったです。私のあんな遠回しな伝え方も理解していただけたみたいで、安心しました」


 今朝、僕が着ていた服の裏表が逆だったことを教えてくれたことに感謝を伝える。これで僕がマーリネイト嬢に会ってやるべきことのひとつが終わった。

 そして、もうひとつだけやっておきたい、彼女に話したいおきたいことがある。


「それからもうひとつだけ、今どうしても伝えなきゃいけない、すごく大事な話があって────」


「なんでしょうか」


 何も悪いことが起こるなんて予想もしていないような、ただただ純粋な期待が込められた笑顔をマーリネイト嬢は僕に向けてくる。


「ずっと前から色々と考えてきたけど、ようやく、僕も結婚について前向きに考えられるようになってきたんだ」


「まぁ。それはとても素敵なことですね。以前のレドフィル様は、結婚に対してすごく後ろ向きな……。いえ。必要以上なまでに慎重なお方でしたから、そのような言葉を聞くことができて嬉しいです」


 随分と楽しげなマーリネイト嬢の姿を見ていると、この判断を下したことが非常に誇らしい気持ちになってくる。


 マーリネイト嬢から届いた恋文がキッカケで始まった僕の非日常は、かなりの遠回りをしてゆっくりと歩みを進め、その道中に様々な問題事を引き起こしてきたが、とうとうここで終わりを迎えるのだろう。


「その前にひとつだけ確認させて。ネイトさんに、結婚願望はある?」


「はい、もちろんあります! 結婚するお相手はもちろんレドフィル様が、レドフィル様でなければダメです!」


「……それなら良かった」


 獲物を視界にとらえた飢えた獣のような迫力に少し気圧されてしまったものの、マーリネイト嬢が心変わりをせずに今日この日を待っていいてくれたことに、僕はなんだかホッとした気分になった。


 それはものすごく短い言葉だ。何の想いも込めずに、空っぽのままその言葉を口にするのはすごく簡単なこと。しかし、僕がこれからマーリネイト嬢に言おうとしている言葉は、その短さには見合わないほどの強い想いが込められている。


 僕がなかなかその言葉を言い出せないでいると、マーリネイト嬢が先に口を開いた。


「レドフィル様。レドフィル様からその言葉を聞く前に、レドフィル様に絶対に守っていただきたい私との個人的な約束をお伝えしておきたいのですが、よろしいですか?」


「個人的な約束? それっていったいどんな────」


 僕が言葉を続けるよりも速く、マーリネイト嬢は素早く自分の言葉を割り込ませ、一瞬にして会話の主導権を握った。


「エミ様のことは忘れてください。そして今後も一切関係を持たないと誓ってください。それが私との約束です」


「…………は?」

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