静かな朝に出会う人(後編)
散らかった寝室の片付けを終えると、僕はベッドに腰掛けて、先ほどマルタポー氏からもらった、彼がこの街を離れている間に僕に頼みたい仕事をまとめた文章が書かれている紙を見ていた。内容をちょうど一周分読み終えたところで、朝食の準備を終えたエミに呼ばれた。枕元に紙を置き、風でどこかに飛んで行かないよう重しになりそうな物を適当に紙の上に乗せて、僕は寝室を出た。
食卓からは相変わらず良い香りが漂ってきている。食欲をそそる、というよりかは、眠気と軽い空腹感でぼやっとした頭を程よく刺激し、睡魔を遥か遠くの方まで追い払ってくれるような、心地よい香りだった。もっとも、僕の体にまとわりついていた睡魔は既に追い払われているのだが。
僕が席に着くと、エミも僕の隣の椅子に座った。穏やかな朝食の時間の始まりである。
黙々と朝食を食べ進めている中、僕は一度食事の手を一度止め、エミの方を見た。
「エミはさ、ネイトさんのことどう思ってる?」
彼女の食事を進める手がぴたりと止まった。口の中に残っている料理を飲み込み終えた後、彼女は口を開いた。
「どう思ってる……って? 綺麗な人だなって思ってるけど────」
「ごめん、言い方がまどろっこしすぎた。僕が言いたかったのは、エミとネイトさんは僕に対して同じような気持ちを持っているから、それを踏まえた上で、相手のことをどう思ってるのか確認しておきたいんだ」
なぜいきなりそんなことを聞くのかと不審に思っているような様子が彼女の表情の変化から察することができた。突然こんなことを訊くのがおかしなことだとはもちろんわかっている。わざわざ訊く必要もないような、今僕が頭の中でぼんやりと思い浮かべているそれが、そのまんま答えになりそうな質問だということも。
でも、僕の頭の中にあるそれが本当に正解とは限らない。だからこそ確認しておきたい。
エミはテーブルの上に両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。真っ直ぐと部屋の壁の方をじっと見つめながら、呼吸を規則的に繰り返している。
「それ、マーリネイトさんにも同じ質問したことある感じ?」
「いや。ネイトさんは自分から教えてくれたよ。エミのことは『恋敵』だって言ってた。しかも、何がなんでも負けないぞってくらいに燃え上がってたね」
「うわぁぁぁ……恋敵かぁ……。やっぱりそういう感じだよね。はっきりそう思われてるってわかると、なんだか苦しいなぁ」
エミは深いため息を吐きながら、ぎこちなく笑った。
「だとしたら、マーリネイトさんってすごいね。さっきそこで会った時、全然そんな風に見えなかったもん。
好きな人の家に遊びに行ったら、なんでか恋敵が出てきた────なんて状況、普通だったら取り乱して当然じゃない? なのにマーリネイトさんはずっとニコニコしててさ、なんとも思ってないみたいに挨拶をして……。
気持ちがあんまり顔に出ない人なのかな?」
「もしくは必死に気持ちを抑え込んでたか、ってところだね。ネイトさんの笑い方、ちょっといつもと比べて不自然だった気がする」
「へぇー。ネイトさんもレドフィルのことよく見てたっぽいけど、レドフィルもレドフィルで、ちゃんとマーリネイトさんのこと見てるじゃん」
「そりゃあ、まぁ、一応……。それなりの付き合いはあるわけだし、これくらいは、別に」
エミは「ふぅん」と相槌をひとつ打って、顎を乗せていた組んだ指を解き、椅子の背もたれにふわっと体を預けた。
「私は…………わがままかもしれないけど、できればマーリネイトさんとは仲良しでいたいし、お友達になれたらいいなってずっと思ってる。
だから、マーリネイトさんのことを敵だとか、そういう風には思ってないし、これからも思えない」
「……そっか。ありがとう。変なこと訊いてごめん」
「ううん。気にしないで」
エミがマーリネイト嬢のことをどう思っているのか。その問いの答えは、やはり僕が想像していた通りの答えだった。改めてエミに訊いて確認したことがちょっと馬鹿らしく思えるくらいだったが、ここで何も訊かずに、自分の頭の中にある考えが本当に正解か不正解かを迷い続けているよりはずっと良いだろう。
質問は終わり、僕たちは再び食事に戻った。口数は少なく、お互いの様子を気にかけることもなく食べ進め、皿の上に盛られていた朝食はすぐになくなった。おかわりはしなかった。
食事の後片付けを済ませると、僕は家に畑に出る準備を始め、エミはもう一度身だしなみを整えに席を外した。彼女は一度自宅に戻ってから酒場に向かうとのことだった。
僕が寝室で着替えなどをしていると、いつの間にか僕の背後に立っていたエミが、ふわりと僕の腰に腕を回して抱きついた。柔らかなエミの身体の感触は僕の背中にが薄い布地越しにぴたりとまとわりつく。
エミは僕の背中に顔も押し当てているのか、彼女の深い呼吸が背中に当たり、ぬるさと風の感触が背筋を伝っていく。
「どうしたの、エミ」
僕の体を抱く力が少し強くなった。
「…………もし、レドフィルがマーリネイトさんと結婚したら、こんなこともう出来なくなっちゃうのかなって思ったら、今のうちにたくさんしておかなきゃって」
突然背後から聞こえたエミの呟き声は、彼女が何を思い、何を想像してそんなことを言ったのかが透けて見えるほど、聞いているこちらも悲しくなるほどに寂しげだった。
「そんなこと言わないでよ。本当にそうなると決まったわけでもないのに」
「でもいつかはそうなるんでしょ?」
「…………そうかもね」
エミの腕が僕の腰回りからするりと離れた。後ろを振り向いて彼女の顔を見ると、穏やかな微笑みを浮かべている。ただ、なんとなく無理しているような、口角だけを軽く持ち上げて笑っているフリをしているような、そんな風にも見えた。
僕もようやく畑に出る準備が整うと、エミは先に玄関の方へ向かって行った。
「じゃあねレドフィル。また今度ご飯作りに来るから」
非常に淡白な別れの挨拶をして、エミは玄関の扉に手をかけた。しかし、そこで彼女は扉を開けずにゆっくりと僕の方を振り向いた。何気ない動作ひとつひとつが美しく、大人びた女性の不思議な魅力を放っており、やはり僕はエミに見惚れてしまった。
表情は真剣そのもので、物言いただけな視線を僕に送っている。
「ねぇレドフィル。さっきレドフィルに変な質問されたから、私も変なこと訊いてもいい?」
「なに?」
「この前、レドフィルの家にお泊まりした時にした話覚えてる? 私はどうしたら幸せだと感じられるのかって話」
なんだそんな簡単なことかと心の中でホッと胸を撫で下ろし、力強く「覚えてるよ」と答えた。
「じゃあ、私はなんて言ってた? 教えて」
「エミは、僕と一緒にいられれば幸せだって言ってた」
真剣な表情を崩して、エミはふふっと柔らかく笑った。
「半分正解で半分外れかな。ちゃんと覚えててくれてると思ったんだけど、ちょっと残念。
確かに、私はレドフィルと一緒にいられるだけでも幸せなんだけど、それよりもね、もっとずっと幸せになれる方法があるんだ」
家の扉に背中を預け、エミは僕の方を見ながらニコリと笑った。今度の笑顔は、フリなんかじゃない。
「私のこと、忘れないでね」
儚げで意味ありげな言葉をひとつ残し、エミは僕の方を向いたまま背中で扉を押し開け、駆け足気味に家を出て行った。
大きく開かれた玄関の扉がぎぃっと軋みながら、ゆっくりと玄関から差し込む朝の光を遮っていった。鳥の囀りも、風の音も、人の声も、何も聞こえない。ただ軋みながら閉まる扉の音と、耳の中に残ったエミの声だけが虚しく僕の頭の中で響いている。
いよいよなんだな、という気がしていた。
こんなすごく曖昧な──捉え方によっては卑怯とも言える──、あっちとも、こっちともみたいな関係をこれ以上保ち続けることが難しくなってきている。
今までずっと目を背け続けてきた問題が、目の前の景色を覆い隠すほど僕の顔の前にあるくらいに迫り、どこを向いてもしつこく僕の視界に張り付いている。
せっかく寝癖を綺麗に治したばかり頭をわしわしと掻き乱し、僕以外の誰かがそこにいた形跡を残した部屋をじっと眺め、この厄介な問題に対して真剣に取り組むことを先延ばしにしてきた過去の自分に対して、僕は小さく舌打ちをした。
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