静かな朝に出会う人(前編)
誰かが自分の家の中を忙しそうに動き回る物音で起きるのは、意外と心地良いものだと最近知った。眠る前には隣にあったはずの物がなく、ひとりで不自由なく体を伸ばして眠っていることに気づくと、ちょっとした寂しさを覚え始めたのもつい最近のことだ。
エミは眠っている僕を起こさぬように注意深くベッドから抜け出し、身だしなみを整えて、朝食の準備でもしているのだろう。その世話焼きな部分に僕は素直に甘えたくなってしまい、開けた瞼を下ろしたくなった。彼女のことだから、朝食の準備ができたら僕を起こしにきてくれるだろう。
眩しい朝日が顔に当たっても、気にすることなく微睡んでいると、家の扉をドンドンと強めに叩く音が聞こえた。
朝早くの来客と言えば────郵便配達人か。
本来ならば僕がベッドから起きて出迎えるべきなのだが、僕が起き上がるよりも早くにエミが「はーい」と声をあげて、家の玄関へと向かっていった。随分と僕を甘やかしてくれるじゃないかと、エミの相変わらずな一面に微笑ましさを覚えながら、僕はまた深めに毛布を被り直した。
ぎぃっと家の扉が開く音を聞いて、僕は目を閉じた。
「おやっ? 君は……」
「あっ、マルタポーさん。おはようございます」
「あぁ、おはよう。ここ、レドフィル君の家で合ってるかな?」
「はい。合ってますよ」
「おぉよかった。一瞬家を間違えたかと思ったよ。朝早くにすまないね。レドフィル君に渡したい物があったんだけど、彼はまだ眠ってるのかな?」
毛布の向こう側から聞こえてきたのは、マルタポー氏の声だった。
ますます僕がベッドから抜け出さなければいけない気がしてきたが、今は全部エミに任せておけばいいやと思って、目を開けることなくそのまま寝たふりを続けていた。
「おや、エミ様ではありませんか。おはようございます」
小鳥の囀りよりもずっと聞き心地が良い綺麗な声を聞いて、このまま寝たふりを続けられるほど僕は呑気な男ではなかった。毛布を蹴り飛ばし、ベッドから跳ね起き、ベッドの隅に脱ぎ捨てられていた服に素早く着替え、寝癖の残ったボサボサの髪を整えることもなく、僕は狭い家の中を走り玄関へと向かった。
玄関先に立っていたエミは、僕のただならぬ雰囲気を感じ取りさっとそこを退いた。
朝目覚めてすぐに、ほんの少しの距離を全力で駆け抜けたせいか、それとも途中で部屋の角に足の指を思いっきりぶつけたせいか、頭がくらくらとして、心臓は自分の体を揺らすほど大きく脈打っている。
それでも僕は声を振り絞り、目の前にいる人たちに挨拶をした。
「お、おはようございます……。マルタポーさん、それから、ネイトさんも……」
「おはようございますレドフィル様。今日も素敵な朝ですね」
マルタポー氏の隣に立つマーリネイト嬢は、にこにこと笑っていた。
「やぁレドフィル君。おはよう。……もしかして起こしてしまったかな?」
「い、いえ。もうとっくの前から目は覚めていたんですけど、なかなかベッドから起きられなくて……」
「なるほどなるほど。いやぁ、その気持ちはよくわかるよ。冷え込んだ朝なんかは特にそうだね」
マルタポー氏と会話を繰り広げながらも、僕はマーリネイト嬢からの視線が気にあって仕方がなかった。なぜ君がそこにいるのかという質問に始まり、僕の家からエミが出てきた時に君は何を思ったのかなど、訊きたいことは山ほどあった。
だが、今それを訊くべきではないことはちゃんと理解していた。
「それで、僕に渡したい物というのは……」
「あぁそうだったそうだった。私がまたしばらく屋敷を空けることになるのは昨日伝えたと思うんだけど、その間に君に頼みたい事がたくさんあってね。
今ここで君に伝えても、伝え忘れがあったりするかもしれないだろう? だからもしもの時に備えて、紙にレドフィル君への頼み事をまとめておいたんだ。はい、これ」
マルタポー氏から手渡された紙には、僕への頼み事がいくつか書かれていた。
ひとつめ。屋敷の畑の世話。僕にとってはほとんど日課のようなものだが、草むしりや野菜の収穫の他にも、植えてほしい野菜の苗があるとのことだった。
ふたつめ。タミヤさんの引っ越しの手伝いをしてほしいとのこと。新居の掃除や家具の運び出しなどが主な作業になるらしい。引っ越し先は近いうちに決めるとのこと。
みっつめ。最後の頼み事はマーリネイト嬢となるべく多くの時間を過ごしてほしいとのこと。マルタポー氏は長い間屋敷を離れることになり、タミヤさんも屋敷から離れる。その間屋敷にいるのはマーリネイト嬢とタリスさんの二人のみになる。
寂しがり屋のマーリネイト嬢が少しでも楽しく毎日を送れるようにという意図が込められた頼み事だった。マルタポー氏の娘想いな性格も相変わらずの様子だ。
「私からはこれで以上だ。それで、ネイトが君に用事があると言っていたから一緒に連れてきたんだけども────」
皆の視線がマーリネイト嬢に集まる。マルタポー氏はその場から少し退いて、話の主導権を彼女に譲った。
「いえ、もう用事は済みました。私はただレドフィル様に『おはようございます』と言いたかっただけですので。朝の空気もたっぷりと吸えましたし、寝癖だらけの可愛らしいレドフィル様も見れましたから、私は満足です」
軽く握った手を口元に当てて、マーリネイト嬢は上品に笑っている。
「じゃあ私たちはこれで失礼するよ。せっかくの静かな朝を邪魔して悪かったね、レドフィル君」
「えっ、あぁ、いや、お構いなく……」
マルタポー氏は「ではよろしくな」と短く言葉を残して、屋敷の方へと続く道をゆっくりと歩き始めた。マーリネイト嬢は軽く頭を下げた後、彼の後を追った。
去りゆく二人の背中を見送っていると、マーリネイト嬢が足を止め、その場でくるりとこちらの方に振り返った。そして彼女は微笑みながら、自身の服の首元をちょんちょんと指でつつくと、また彼女は僕に背を向け歩き始めた。
彼女がそうしていたように、僕も今着ている服の首元を指で引っ張ってみると、かすかな違和感に気づき、その違和感の正体に気づいた時思わず僕は「あっ」と声を上げた。
逃げ隠れるように家の中に戻り、玄関の扉を閉め鍵をかけると、僕は肩を深く落としながら溜息を吐いた、
「どうしたの、レドフィル」
「服、前と後ろを逆に着てた。おまけに表と裏も逆だ」
本来なら首の後ろ側にあるはずの、服の前後を見分けるために縫い付けられている目印の生地が喉の方にある。おまけに肩や袖の部分にある縫い目が表に顔を出し、僕の失敗を嘲笑っている。
そもそも服の見た目が地味なせいで前後がわかりにくいんだとか、服を一度脱いだ時に後先考えず雑に脱いだその時の僕が悪いんであって今の僕は何も悪くないなどと、様々な言い訳を思い浮かべるけれども、余計に虚しい気持ちになるだけだった。
エミにもわかりやすいように服の首元を引っ張ってみたり、生地の縫い目を指でなぞったりしてみると、エミはぷっと吹き出して、ケラケラと楽しそうに笑い始めた。
奥歯をぎゅっと噛み締めながら僕は服を脱ぎ、表裏を直し、どちらが正面かをちゃんと確認した上で着直した。その一連の動作が終わるまで、エミはずっと笑っていた。お腹を手で押さえて、ひぃひぃと苦しそうに喘ぎながら。
「服を前後ろ逆にして、しかも表と裏も間違えてるとか慌て過ぎでしょ。しかもよりにもよってマーリネイトさんに見つかって……アハハハ!」
「そこまで笑わなくてもいいじゃないか。間抜けだったのは認めるけど」
「あー、笑い過ぎてお腹痛いや。でも、それくらいの失敗で済んでよかったんじゃない? 何も着ずに上だけ裸のまま飛び出してきたかもしれないんだしさ」
笑いすぎで目尻に溜まった涙を指でさっと拭いながらエミは言った。
「っていうか、マーリネイトさんよく気づいたね。私全然気づかなかった」
「まぁ、ネイトさんが特別なだけなんだと思うよ。気づかない方が普通」
エミがニィッと白い歯を見せて笑った。
「後でお礼言いに行ってあげなよ。レドフィルに気を遣って、遠回しに伝えてくれたんだからさ」
「自分の失敗をほじくり返しに行くようなもんだよ、それ。まぁ、どっちみち屋敷には行くんだけどさ」
朝一番に起こった騒動もこれで無事に片付き、エミは朝食の準備に戻り、僕は散らかった寝室の片付けに向かった。
獣が迷い込んで暴れていったのかと思うほどの惨状が寝室には広がっていた。
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