期待と後悔

「今日もお疲れさまレドフィル君。はい、今日の分だ」


「どうもです」


 マルタポー氏の手のひらから僕の手のひらへ、じゃらじゃらと数枚の硬貨が移った。今日の分の農作業を手伝ったことで得た報酬だ。持って来ていた袋に報酬のお金を入れ、中身が溢れないようにしっかりと袋の口を固く縛り懐に入れた。


 久しぶりにお邪魔したマルタポー氏の自室は、また少し散らかっていた。

 

「この様子だと、また仕事ですか」


「仕事、いや────まぁ、そうとも言えるかな。どうしても外せない大事な用事があってね。まだしばらくは日程に余裕があるけど、私が家を空けている間、またレドフィル君に畑の世話を任せてもいいかな。もちろん報酬は用意しておくよ」


「えぇ。僕なんかの力でよければ。いくらでも」


 別れの挨拶を短く交わし、僕はマルタポー氏の自室を出た。


 玄関を抜けて屋敷の外に出ると、ちょうど目の前の花園にマーリネイト嬢がひとりポツンと立っていた。屋敷に背を向け、ぼーっと花を見つめている。花びらの彩の中で一層際立つ彼女の黒色の髪の毛がさらさらと風の中に揺れている。


 瞬きと呼吸を忘れてしまうほど、その光景は美しい。


 僕の気配に気づいて、彼女はくるりとこちらを振り向いた。彼女の表情には暗い雲がかかっており、顔色も優れない。


「どうかした? なんだか暗い顔をしてるけど」


 僕は花園に立つ彼女に近づいて、声をかけた。


「実は、今日の特訓を終えたあたりから、タリスが体調を崩してしまったみたいで……。

 先ほど彼女にはしばらく部屋で休んでいるようにと言って、看病はタミヤに任せてきたのですが……」


 内側のざわつきを抑え込もうとするように、胸の真ん中に手を置いて彼女は静かに打ち明けた。


「体調不良ね。症状は何か聞けた?」


「頭痛がすると。それから眩暈がして、体全体に重たい物がのしかかっているような感覚も……」


「ふむ」


「タリスは大丈夫なのでしょうか。何か悪い病気にでも罹ったのでは……」

 

 マーリネイト嬢の不安げな声に耳を傾けながら、僕は自分の経験則に基づき、ちょっとした考えを述べた。


「もしかしたら疲れが溜まってきたのかもね。新しい場所に慣れるのにまだまだ苦労してるだろうし、早くネイトさんたちの役に立てるようにならなきゃって焦る気持ちもあったんじゃないかな」


「疲れが溜まって……ですか」


「僕も働き過ぎた後には頭が痛くなったり、何もしたくないなーって気分になったりするからさ。二人とも、ここ最近はずっと特訓を頑張ってたみたいだから疲れて当然だよ。本当に体が壊れてしまう前にゆっくりと休むのも大事。

 でも体調不良が続いたり、症状が悪化しそうなら医者にちゃんと診てもらった方がいいかな」



 マーリネイト嬢は、少し黙った後にこくんと小さく首を縦に振った。少しだけ、マーリネイト嬢の顔から雲が晴れたような気がした。


「やはり、レドフィル様は私が思っていた通りに、いえ、思っていた以上に素敵な方です」


「期待のし過ぎは後悔の元だよ」


 照れ隠しに頬を指で掻きながら、僕は意地悪を言った。


 それでもマーリネイト嬢はどこか余裕ありげな表情で、


「期待されれば、その期待に必ず応えようとしてくれるのが、レドフィル様でしょう?」


と返してきた。


 もう一度何か意地悪なことを言ってやろうとして、やめた。


「ところで────特訓の調子はどう? タリスさんが寝込んでる時にするような話じゃないかも知れないんだけど」


「概ね順調と言ったところでしょうか。まだしばらくは時間をかかるでしょうけど、タリスが正式にこの屋敷の使用人として働けるようになるのは、そこまで遠い話ではないかと」


「鈴の魔法、だっけ。畑仕事の最中に、タミヤさんから軽く話を聞かせてもらったんだけど、とにかく不思議でたまらなかったね。そんなものが本当に存在するのかって感じ」


 まだ魔法の存在に対して疑いの気持ちを持っている僕を見ながら、マーリネイト嬢は口元に指を当ててふふっと上品に笑った。


「無理もありませんよ。どちらかと言えば私も、母の教え通りにタリスと特訓をしていく中で、この鈴の魔法の存在を心から信じられるようになっていきましたから」


 この屋敷に住んでいる人間にとって『魔法』という存在はあって当然の物なんだろうな、という認識でいたのだが、実はそうでもないらしい。

 当たり前のように鈴を鳴らしてタミヤさんのことを呼んでいたマーリネイト嬢も、特訓という活動を通じて魔法の存在をようやく信じ始めたのだから、僕のような部外者が信じられないのは当然のことか。


 しかし、周りの人たちが何度もそう呼んでいるから、僕も合わせて呼んでいるが、その『特訓』とやらの正体は一体何なのか。


 マーリネイト嬢とタリスさんが屋敷のどこかで『特訓』をしているのは知っているのだが、その場所や内容に関しては何も知らない。訊けば教えてもらえるのだろうか。


「その特訓ってさ、どんなことをするの?」


 僕の質問に対して、マーリネイト嬢は立てた人差し指を唇にあてがって、シーッと細く息を吐いた。


「秘密です。レドフィル様であっても、それは流石に教えられません。特訓の内容を無闇に広めてはならないという、母からの大切な教えがありますので」


「残念。タミヤさんは鈴の魔法についてあれこれ丁寧に教えてくれたから、特訓についても教えてもらえるかなと思ったんだけど」


「どうしても特訓の内容について知りたいのなら、レドフィル様もこの屋敷の使用人を目指すしかありませんね。」

 

 「使用人を目指す気はひとつもないよ」と答えようとして、あの時に思い浮かんだ疑問が、またふと蘇った。


「あのさ、タミヤさんからその魔法について教えてもらってる時に思いついたことがあるんだけど、ネイトさんにも聞いてもらってもいいかな」


「……思いついたこと? なんでしょうか」

 

 あの時タミヤさんから聞いた難しい話を思い出しつつ、自分なりの解釈を交えながら僕はゆっくりと説明を始めた。


「その魔法って、『理想の使用人』を生み出すためにネイトさんのお母さんとタミヤさんが協力して作ったって聞いたんだ。

 それで、この魔法は術者が被術者に暗示をかける、みたいな話が出たんだよね」


 そこまで話したところで、マーリネイト嬢が「まぁ」と声を上げながら驚いた。


「そこまでタミヤは話してしまったのですか」


「さすがにまずい? 問題があるようなら聞かなかったことにするけど……」


「……いえ、絶対にこの魔法について広めないと約束していただけるのであれば問題はありません。むしろ、タミヤはレドフィル様のことを信頼して、そこまで話したのだと思いますから」


「大丈夫。絶対に広めないよ」


「それなら」


 マーリネイト嬢が落ち着いて話を聞く姿勢を整え直したところで、僕はまた話を続けた。


「それで、僕はちょっとしたことを思いついて、タミヤさんに聞いてみたんだ。『この魔法は応用が効かないのか』って」


「応用、ですか?」


 マーリネイト嬢は小さくかくっと首を横に傾げた。


「タミヤさんからは『できるかもしれない』とだけ言われたんだけど、実際にその魔法を使っているネイトさんになら、わかることもあるのかなーと思ってさ。

 ……ネイトさんはどう思う?」


 軽く握った拳を口元に置いて視線を斜め下に落とし、しばらくの間そうして黙っていた。やっと口を開いたかと思えば、彼女は首を小さく横に振りながら、まず「わかりません」と口にした。


「一応、色々と考えてはみたのですが確証が持てません。できるかもしれないし、できないかもしれない。私一人の乏しい知識と経験ではこれぐらいのことしか……。申し訳ございません」


 きっかけは僕のくだらない質問なのだから、マーリネイト嬢が謝る必要はどこにもないはずなのに彼女は僕に深々と頭を下げた。


「それに。レドフィル様の考えが実際に可能だったとしても、私としては、母の教えから大きく外れるようなことはしたくありません。

 この魔法は『理想の使用人』を生み出すために作られた物。本来の使用目的から大きく外れた使い方をしてしまっては、母になんと言われるやら」


「それもそうか」


 自分の浅はかな考えを恥じ、僕は後頭部をわしわしと掻いた。


「ちなみにレドフィル様は、なぜそのようなことを思いついたのですか?」


「……あー、いや、その魔法の力があれば、僕も『自信に満ち溢れた、何事にも動じず、自分の意見をスパッと決められる人間』になれたりしないかなーなんて、ちょっと思いついちゃってさ……」


 理由を聞いたマーリネイト嬢はちょっとだけ目を見開いた後に、


「絶対にダメです」


と、はっきりとした口調で答えた。


「レドフィル様にとってそれが良いことだとしても、私にとっては良くありません。レドフィル様ご自身が気にしているであろう、そういう部分も含めて、私はレドフィル様のことを愛していますから」


 恋は病だとか、恋をすると周りが見えなくなるだとか。


 そういう言葉をよく聞いたが、本当にその通りだと思った。

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