一歩先に動けたら
カップの中の酒をちびりちびりと、ブルードとの雑談を交えながら飲み続け、彼がちょうど四皿目の料理を綺麗に平らげたあたりで僕のカップも空になった。ブルードはまた酒を一杯注文していた。
がっつくように料理と酒を味わっていたせいか、いつもに比べてブルードの酔い方が激しく見える。勢いに任せてわざざわ言わなくてもいいことを、ここぞとばかりに吐き出してくる彼に、僕は若干苛立っていた。
「だからよぉ、俺は前から言ってるじゃねぇか。お前がすぱっと決めちまえば、悩み事なんか全部綺麗に消えちまうんだって。だから今からお前はマーリネイトお嬢様のところまで走っていって、『僕は君よりもエミのことを大切にします。ごめんなさい』って言ってくりゃあ済む話じゃねぇか」
「あのなブルード、君はあのお嬢様がどんな人か知らないからそうやって言えるんだ。そんなことをしたら僕はいったいどうなると思う。あの子は君の想像以上にヤキモチ焼きなんだぞ」
「いいじゃねぇか、あのマーリネイトお嬢様にヤキモチを焼かれるなんて。うらやましい」
僕がどれだけ真剣に語ってもブルードは僕の話を信じてくれる様子はない。
それもそのはず。彼はマーリネイト嬢がどういう人物なのかを詳しくは知らないのだから。もちろん彼だけではない、近くの席で楽しげに酒を飲んでいるあの人も、酔っ払いの相手をしながら少し疲れた笑顔を浮かべているあの給仕の女性も、マーリネイト嬢がどんな人物なのか知らない。
あまり屋敷の外を出歩けないマーリネイト嬢と町の住民との関わりが薄い故に生まれてしまった僕と僕以外との認識の差を感じ、僕は奥歯をぎゅっと強く噛み締めた。
「まぁ、ゆっくり時間をかけて考えていけよ。そんな悠長にしている暇があれば、の話だがな。しまいにはマーリネイトお嬢様とエミの両方から愛想を尽かされるかもしれんぞぉ」
「他人事だからって、適当なことばかり言いやがって……」
「他人事だからだよ。自分のことなら、もうちょっと真剣に考えるさ」
けっ、と言葉では表せない不満を短くまとめて吐き出し、カップの中に残っていた一滴にも満たない少量のお酒を舌の上に落とした。
少しばかり乱暴にカップの底をテーブルに叩きつけた後、僕は懐からお金の入った袋を取り出した。袋の中身を手のひらの上に出して数をかぞえ、飲んだお酒の代金分をテーブルの上にじゃらじゃらと落とす。
袋は空っぽになった。
「僕はもう帰る。お金はここに置いて行くから、支払いは任せた」
「おーう。気をつけて帰れよレドフィル」
呑気にカップに口をつけたまま、彼は僕に別れの言葉を告げた。
酒場の玄関をくぐりぬけ、賑わいの余韻がまだかすかに残る夜の町へと出た。人通りはどこもまばらで、町の中心部へとつながる大通りから外れてしばえば道行く人は消えてしまう。並ぶ家々からはまだ起きている人の気配も感じられるが、すぐに眠って静かな夜の中に消えてしまうだろう。
こつこつ────と、石畳を丁寧に踏む僕の足音に、とっとっと────、と駆け寄ってくる足音が混じった。
後ろを振り向くと、息を切らしながら小走りで僕の方まで駆け寄ってくるエミがいた。
忘れ物でもしたかとさっと自分の懐などを漁ってみるも、あるべきはずのものはちゃんとそこにある。
────もしや僕に会いに来るために、わざわざ仕事を抜け出してきたのか。
なぜ彼女がここまで走ってきたのか。その理由を探す想像は僕の都合よく際限なく余分に広がり、ついには僕の口角をにやりと持ち上げる。それ以上想像に浸るのはやめろと頭の片隅では考えつつも、そういうことばかり考えてしまう。やはり僕も所詮は男だ。
エミが僕の前まで来ると、そのニヤケ面を素早く隠して、いつも通りの微笑み顔に変える。声は穏やかに、そしてどこか疑わしげに、「どうしたの?」と、弾む呼吸を必死に整えているエミに問いかける。
「これ、渡さなきゃと思ってさ」
差し出されたエミの手の中には数枚の貨幣が握られていた。金額は少ない。なぜこれを僕に、と訊き返す前にエミが口を開いた。
「あのね、この前お酒値上げしたって言ったじゃん。あれ嘘」
「やっぱりか」
「さっきブルードとそんな話してるのたまたま聞こえちゃってさ。ずっとレドフィルを騙しっぱなしじゃ申し訳ないから、あとで怒られる前に返さなきゃと思ってさ」
「別に、怒りはしないけど、なんであんな嘘をついたのか理由は教えてもらいたいかな」
エミは少しだけ僕から視線を外し、「えっとぉ」と恥ずかしそうに呟きながら頬を指で掻いた。
「なんかさ、あの時の私、レドフィルともうちょっとだけ一緒にいたいなって思ったんだよね。せっかくレドフィルと二人きりになれたから、どうにかできないかなって考えた結果があの下手な嘘。今思うと、もうちょっとマシな嘘くらいあったんじゃないかなって思うんだけどね」
「その下手な嘘に今さっきまで騙されてた人間がここにいるんだけどな」
嘘に踊らされていた時に失ったお金が手元に戻ってきたとはいえ、その実、僕が情報に疎かったり、真実か嘘か見抜けない鈍感さが浮き出てきたりと、素直に喜べない複雑な気持ちが僕の胸の中に溜まっている。
受け取った貨幣は袋に入れた。寂しさだけを詰め込んでいた空っぽの袋に、かすかな希望が詰め込まれた。
「エミはこのあともまだ仕事?」
「うん。そこまで時間はかからないと思うけどね。……もしかして、待っててくれるの?」
「出来ることならそうしたいところだけど、今日は動きすぎてクタクタなんだ。早く家に帰って眠りたい気持ちの方が強いかな」
「ふーん、そっか……。じゃ、ここでお別れかな」
退屈そうなエミの声を聞くと、胸の真ん中あたりがつんと痛んだ。僕がエミに対して酷く悪いことでもしてしまったかのような、罪の意識がふわふわと僕の肩に手を憑いて、「そこは疲れていたとしてもエミを待ってやるべきだろう」と囁いてくる。その聞こえないはずの声は、なぜかブルードのものだった。当然この場にブルードがいるわけはないし、周りを見渡してもこの道の上には僕とエミしかいない。
僕と、エミの、二人だけ。
「ん」
突然、エミが目を閉じて僕の方に顔をずいと向けた。
「…………ん? なに、それ」
「もう、鈍いなぁ」
苛立ったような声を出しながら、エミは目を開けた。
「お別れのキス、してくれないの?」
「……する必要ある?」
「好きな人には、こじつけでもいいから理由をつけてキスしてほしくなるものなの。ほら早く、誰かに見られちゃうかも」
僕がそう言うとエミは再び目を閉じた。
彼女の顔にかかる前髪を指先で少し横にのける。不器用ながらも雰囲気作りに努めたキスはあっけなく終わったが、僕の唇にはまだ感触が残っている。
エミとのキスには、マーリネイト嬢とキスをした時とはまるで違う感覚が、「自分は今、キスをしたんだな」という確かな実感があった。そしてそれは言い換えるのなら、僕の心には充足感があって、『幸せ』という感情へあと一歩のところまで迫ったような────そういう感覚だった。
にひひ、と幼く無邪気に笑ったエミは、自身の心臓の鼓動を確かめるように両手を胸の前に置いた。
「うん。私、この感じ好き。あとちょっとのお仕事も頑張れそう」
「ならよかった」
「じゃ、お店に戻るね。ありがとレドフィル。また明日」
「うん。また明日」
走り去っていくエミの背中を見つめながら、僕は色々と考えを巡らせていた。
今ここで彼女に向かって「結婚しよう」と叫んだのなら、もしくは今からマーリネイト嬢の屋敷に戻ってブルードの助言通りのことをしたのなら、本当に僕を取り巻く何もかもが綺麗に片付くのだろうか。
やはりそうは思えなかった。
要らないがらくたを全て捨て去り部屋を綺麗にしたところで、そこにはまた次々と別の荷物が運ばれてくる。エミとマーリネイト嬢との関係をここで改めたところで、また別の問題が、より厄介なものを連れて戻ってくるに違いない。
そして最後に行き着くのは「もうしばらくはこのままでいよう、いつか答えは出せるはずだから」という弱気な結論。
────愛想を尽かされる前には、なんとかしたいんだけどな。
そう願うだけで、この夜は終わりを迎えた。
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