わがままな君のせい
それはきっと。夢、だったのだろう。自分が起きてるんだか眠っているんだかの境界線が曖昧になるほど、あまりにも現実味を帯びた夢。触れたもの、見たもの、聴いたもの、嗅いだもの、味わったもの。夢の中で体験したそれら全てが、現実の僕の五感を確かに刺激していた。
あの日の夜、エミと共に一晩を過ごした時の、「あり得たかもしれない別の道」が夢となって僕の前に現れた。
だが、夢の中の『僕』は、僕であって僕でないようなものだ。「いやでも」「僕なんかより」などの言い飽きた弱音を吐くことなく堂々としている。ほんの少しだけ羨ましい。
『僕』は狭苦しいベッドの上でエミと一緒に向かい合って横になり、聞いているだけでこっちが恥ずかしくなるような、舌を引っこ抜いて二度と喋れなくしてやりたいと思うほど、甘い愛の言葉をエミに向かってささやき続けている。
思いつく限りの愛の言葉をエミに伝え尽くした後、夢の中のエミは僕の名を呼んだ。それに答えるように、エミの熱を直に感じられる火照った頬に『僕』はそっと手を添えて、彼女の名をささやいた。
────エミ。
「レドフィル様?」
目を開けて真っ先に目に飛び込んできたのは、不思議そうに僕を覗き込んでいるマーリネイト嬢の美しい顔だった。
いつの間にか彼女は僕の隣の椅子に移動していたらしく、やけに距離が近い。僕と彼女の顔の間には、拳がひとつかふたつ分の隙間しかない。花の香りによく似た甘い香りが、風に運ばれてふわりと僕の鼻をくすぐる。
そんなマーリネイト嬢の左頬には、僕の左手が添えられていた。夢の終わりに『僕』がエミにそうしていたように。
彼女の絡まり知らずな黒髪は、僕の手の甲にさらりとしなだれかかっていた。手のひらから伝わる熱はひんやりとしており、夢で感じたものとは真逆。
その冷たさは手のひらから体全体へと巡り、ついには背筋をぶるりと震わせた。
「今、なんとおっしゃいましたか」
僕の寝言を聞き逃してしまったから単純に聞き返しているというふうには思えない。その問いかけには、かすかながらも怒気というか、嫉妬というか、そんなものが込められていた。
昼寝から目覚めたばかりの、頭がぼんやりとした状態の僕にそんなことを聞かれても困る。
左手を彼女の頬から外し、しどろもどろになりながらも口を開く。
「あっ、いや、えっと────寝ぼけてたみたいだ。それで、ネイトさんとエミを見間違えて────」
「夢の中にエミ様が……。なるほど、そうですか。レドフィル様の夢に出られるなんて、うらやましいですね」
その静かでありきたりな反応は、重く僕の耳に残り、鋭く僕の心臓を刺す。
マーリネイト嬢は、僕がどんな夢を見ていたのかを深く追求することはなかった。寝言や言い訳についても無関心な態度を貫いた。それでも僕の見ていた夢と寝言が、彼女の機嫌を損ねてしまったことは間違いない。
マーリネイト嬢がエミのことを「恋敵」として認識していることを僕は知っている。自分が慕っている相手の口から、自分の名前ではなく、その恋敵の名前が飛び出てきたのであれば機嫌を悪くして当たり前だ。「こんな些細なことで機嫌を悪くしないでくれよ」と咎める権利は僕にはない。
「……ごめん」
取り繕うように口にした謝罪の言葉も、サヒレス園の静寂の中に溶けて消えた。
最近の僕はどうにかしてる。エミのことがマーリネイト嬢に見えたかと思えば、今度はマーリネイト嬢をエミだと勘違いしている。
実はエミとマーリネイト嬢は別々の人物ではなく、同一人物だとでも言うのか。いやそんなはずはない。両者が顔を合わせていた場面を僕はこの目で見ていたのだから、それはありえない。
目頭を指でつまみ、大きく溜め息を吐く。睡眠をとったおかげで体の具合は先ほどよりもずっとマシになったが、背中に乗っている疲労感の正体はいったい何なのか。どうやっても癒えることのなさそうなこの疲労感から解放されるのは、いったいどうすればいいのか。
「────っていうか、顔、近くない?」
「レドフィル様の寝顔を間近で堪能するためには、こうするしかありませんので。致し方なく」
「僕の顔なんか見たって何もないでしょ。お腹がふくれるわけでもないし、頭が良くなるわけでもない。ましてやどこからかお金が出てくるわけでもないのに」
僕の意地悪な発言に、マーリネイト嬢はひとつも迷う様子など見せず、
「そうだとしても、心は満たされますから」
そうハッキリと言葉を返してきた。
その自信に溢れた言葉に僕は何も言い返すことができず、このくだらない討論に敗北したことを認め、肩をすくめた。
「要するに、ネイトさんは僕の寝顔を見ているだけで幸せになれるってことか」
「そんなところですね。もっと極端な話をしてしまえば、私はレドフィル様がそばにいてくれるだけで、すっごく幸せなんです」
僕がそばにいるだけで、幸せ。
エミとマーリネイト嬢が同一人物なのではないかと疑って、それをすぐに否定した僕だったが、あの考え方はあながち間違いでもなかったのかもしれないなと、終えたはずの議論を掘り返した。
エミとマーリネイト嬢は似ているような気がする。気がするだけであって、確信にはほど遠いけれども。
「でも、レドフィル様もご存知の通り、私はわがままですから」
「……だから、何?」
「えっと、つまりですね。レドフィル様、手を出してもらえますか」
なんとなく手のひらを空に向けた状態の左手を彼女に向けて出す。差し出された僕の左手をマーリネイト嬢は、両手で上下から優しく包み込んだ。いきなりの行動に驚きこそしたが、彼女なりの理由があるのだろうと黙って受け入れる。
あまり体の熱が表に出てこない体質なのか、マーリネイト嬢の手はひんやりとしていて、僕の手からじわりじわりと熱を奪っていく。奪っていく、と言うとあまり聞こえが良くないかもしれないが、その冷たさはむしろ心地よく、僕のためだけにあらかじめ調整しておいたのかと疑ってしまうほどだった。
「私は、こうしているだけでも幸せです。でも、私はわがままですから、これ以上を望んでしまうんです。その時に自分が感じている幸福感には、まだ続きがあるはず、もっと自分は幸せになるはずなんだと考えてしまうんです。
具体的に答えるのは難しいのですけど、たとえば、レドフィル様とこのままずっと何があっても手を繋いでいたいとか、『手を繋ぐこと』よりももっと私の心を満たしてくれる、幸せだと感じられることをしてみたいだとか、そういうことを望んでしまうのです」
僕の視線は一瞬だけ彼女の唇へと移る。そしてすぐに彼女と目を合わせ、
「キスとか?」
彼女をからかうつもりで、また意地悪を言う。話にうまく乗せられて言わされたのかもしれない。
マーリネイト嬢の手が、ほんのりと熱くなった。
「…………はい」
「わがままだね」
「言われなくてもわかってますよ、そんなこと」
僕の手を握ったまま、彼女はにこりと微笑んだ。初心な少女も少しずつ成熟しつつある。そしてその成長の肥料となってしまったのが僕であると思うと、なんとなく自分の存在が憎らしく思えた。
僕の手は未だに彼女に包まれたままで、もうしばらくの間はこのままでいさせられるのではないかと勘づき始めていた。僕がこの手から解放されるためには、何か大きなキッカケが必要なのではないかということも、うっすらと。
マーリネイト嬢が意味ありげな視線を僕に向ける。これから起こることに対して期待しているように、彼女の目はきょろきょろと落ち着くなく泳いでいる。頬も少し赤い気がする。
「レドフィル様、私ともう一度キスをしてください」
「……今はお酒のせいに出来ないけど」
「レドフィル様が寝ぼけていたせいにするか、私のわがままのせいにするか。そのどちらかでしょうね」
「じゃあ、ネイトさんのわがままのせいってことにしよう。僕はもうすっかり目が覚めちゃってるし、何よりそっちの方が説得力がある。僕は今日も君のわがままに振り回された結果、しかたなくキスをすることになってしまった────そんなところかな」
「今日のレドフィル様、なんだかとっても意地悪です」
「誰のせいだか」
マーリネイト嬢がそっと目を閉じたのを合図に、僕は念の為辺りを注意深く見渡した後、彼女にキスをした。唇の先が軽く触れ合う程度の優しいキス。
唇が離れると、ゆっくりと目を開けたマーリネイト嬢は幸せそうに笑った。
これでも彼女はまだこれ以上を望んでいるのだろうかと思うと、なんとなく気が重い。
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