第四章
待ち人はすぐそこまで
ぽつぽつと畑の耕された土の上に顔を出し、緑色を散らかしていた雑草たちは、僕の手によって根こそぎ刈り取られた。
手のひらの上にこんもりと積もった雑草の山を抱え、それを畑の隅に落とす。顎の輪郭に沿って流れる大粒の汗を服の袖で拭い、ふぅと大きく息を吐く。
そうして僕は初めて「仕事が終わった」と満ち足りた心地に浸る。
そこは僕の家の畑ではなく、マルタポー氏の屋敷にある庭の畑だった。
規模だけで言えば僕の家の畑の方が若干広いくらいなのだが、他人様の大切な畑の管理を任されているという責任感が、僕に余計な疲労感を与えてくる。だからこそその反動で、日に照らされている土の色を見ているだけで、仕事を終えた僕はこんなにも清々しい気分になれるのだろう。
マルタポー氏が長期の仕事に出かけてからしばらくが経った。まだ彼が屋敷に帰ってくる気配はない。もう少しの間はこういう生活が続く予感がした。
朝起きて自分の畑の世話をやり、荷車を引いて野菜を市場へ売りに行く。そうして自分のやるべきことを終えた僕は、マルタポー氏の屋敷へと向かい彼の畑の世話をする。大したことはしない。僕にできる仕事といえば、野菜や花へ水をやったり、雑草が目立ち始めれば先ほどのようにむしってやる程度のことくらいだ。僕が好き勝手に野菜や花を植えたりしたら、後で何を言われるかわからない。
畝を踏まぬよう注意深く畑を抜け、屋敷の裏口の近くで軽く服や靴に付着した土汚れを落としていると、何者かが軽い足音を立てながら、畑の方に近寄ってくる気配がした。もちろん僕はその気配の正体が誰のものなのかがわかっているので、特別不審に思ったりすることはない。
物陰から現れたのは、穏やかな笑みを浮かべているマーリネイト嬢だ。その手にはつい先ほどまで読んでいたのであろう本が抱えられていた。
「お疲れさまです、レドフィル様。もうお仕事の方は終わりですか?」
「うん、今日中にやれることは一通りやったって感じ。ただ、まだ雑草が残ってる部分がいくつかあるし、そっちの草むしりも済ましておきたいんだけど、それはまた次の日とかにやろうかなと思ってるよ。頑張りすぎは体に毒だしね」
マーリネイト嬢がここに来るのはいつものことだ。僕が畑仕事を終えた頃合いを見計らい、もしくは常にどこかから監視をし、ここへやってきては労いの言葉をかけてくれる。
そういう小さな心遣いが、疲れ切った体にはよく沁みる。
つい先日、彼女とは色々と揉めた関係ではあるのだが、今ではすっかりそのことも一つの思い出として捉え、こういう『友人』としての付き合いを保っている。マーリネイト嬢本人が今の関係をどう思っているのかは知ったことではないが、これは僕たちに必要不可欠な関係性と時間だ。お互いをよく理解するための。
マーリネイト嬢は畑の一帯をきょろきょろと見渡した後、顔色を少し曇らせた。
「あの、レドフィル様。タミヤの姿を見かけませんでしたか?」
「いや? 見てないよ。というか、鈴を鳴らせば来てくれるんじゃないの?」
『鈴』という言葉に反応して、マーリネイト嬢は懐から、陽光を眩く反射させている手のひらの中にすっぽりと握り隠せてしまうような鈴を取り出した。この鈴を鳴らせば、タミヤさんはこの鈴の音をどこにいても聞き取り、鈴を鳴らした主人のところまで駆けつけてきてくれる。
だが、マーリネイト嬢は首を小さく横に振った。
「それが、鈴は何度も鳴らしてはいるんですけど、何の反応がないのです」
言うすより試した方が早いと、マーリネイト嬢は鈴を振ってしゃららんと音を鳴らした。
…………遅い。待てば待つほど鈴の音色の余韻も耳から遠のき、わずかに抱いていた期待も確信へと変わる。
タミヤさんは絶対にここへは来ない。
「鈴の音が聞こえるのは屋敷の敷地内だけだと本人が言っていたので、もしかしたら町の方に出かけたのでしょうか。でも私には何の連絡もありませんでしたし……」
タミヤさんが町に出かけることがあるとすれば買い出しくらいだ。その時には必ずマーリネイト嬢かマルタポー氏──今はマルタポー氏が不在のため、彼が「町に出る」と連絡をするのは必然的にマーリネイト嬢ひとりになる──に一言くらい声をかけていくと思うが、なぜか今回の外出は、何も言わずに黙って屋敷を出ていった。
「ちょっと町に出て探してくるよ」
マーリネイト嬢の表情がパッと明るくなる。
「では私も一緒に────!」
「いや、ネイトさんも一緒に屋敷を空けると、用事を終えて屋敷に戻ってきたタミヤさんとすれ違う可能性がある。それだけは避けたい。だから、ネイトさんには留守番をお願いしたいんだ。それに、町を歩き慣れてるのは僕の方だしね」
僕とまた屋敷の外を散歩できることを期待していた様子のマーリネイト嬢だったが、状況が状況なため、僕の説得には素直に従った。
「では、お願いします」
マーリネイト嬢は深々と腰を折って頭を下げた。
何の連絡もなしに、屋敷の執事として働いているタミヤさんは屋敷から出ていった。彼を呼ぶためにある鈴すら意味をなさない場所まで出向いているとしたら、何を目的に彼は屋敷を出たのか。争い事とは縁遠い平穏なこの町の中で事件に巻き込まれたとは考えにくいが、可能性がないわけではない。「もしかしたら」があり得る。
人の賑わう市場に行けばタミヤさんの姿を見かけたことがある人くらいは見つけられるのではないかと、屋敷を出て真っ先に市場へ向かう。
市場で店を出している知り合いに声をかけ、タミヤさんの目撃情報はないかを尋ねるも大した成果は得られなかった。人が多すぎて客でもない人間に注意を向けるような暇がなかったことが原因だろう。だが、タミヤさんが市場で買い物をしていないことはわかった。
その後は手当たり次第に町を巡ることにした。町を一周してもタミヤさんが見つけられなかったら、一度屋敷に戻って考え直そうという計画だ。
町をさまよい歩きながら、あの整った身なりの男性を探す。
目的の人物は、町と町の外の境目付近で、遠くに見える山をじっと見つめながら、姿勢正しく立っていた。
「タミヤさん!」
僕の呼びかけに、タミヤさんは少しだけ肩をぴくりと跳ねさせた後、ゆっくりと体ごとこちらを振り返った。
彼の両手には何やら便箋のようなものが大事そうに握られている。
「おぉ、レドフィル様でしたか。奇遇ですな。どうかされましたか」
「ネイトさんに相談されて代わりに探しにきたんです。何も言わずに屋敷を出ていったこと、心配してましたよ」
「……あぁ、それは大変ご迷惑をおかけしました。実は、非常に嬉しい手紙を頂いてしまいまして、後先考えず屋敷を飛び出してしまったんです」
タミヤさんの手に握られたままひらりと揺れる便箋に視線が移る。 執事としての責務を全うすることに命を捧げているようなタミヤさんを、そこまで衝動的に動かす手紙とはいったい。
「手紙?」
タミヤさんは目を細めた。
「娘からです。なんでもこの町に越してくるそうで」
その語り口は実に嬉しそうだ。
「えっ。タミヤさん、結婚してたんですか。それに子どももいるなんて」
「えぇ、私も若い頃は人並みに恋をして家庭を築いておりました。まぁ、妻とはもう随分前に別れましたがね。娘が生まれて、彼女がやっとたどたどしいながらも言葉を喋り始めた頃だったでしょうか。妻とひどい大喧嘩しましてね。それがキッカケで妻は家を出て行き────」
「ごめんなさい。なんか変なこと聞いたみたいです」
「いえ、お気になさらずに。とにかく、マーリネイトお嬢様には私のことは無事だとお伝えください。詳しい事情は、また後ほどお話できるでしょうから」
僕は素直にタミヤさんの言葉に従ってその場を離れ、屋敷へと戻った。
僕の帰りを不安げに待っていたマーリネイト嬢にタミヤさんの事情を伝えると、彼女はひとまずほっと胸を撫で下ろした。とはいえ、自分に何も言わずに勝手に屋敷を出ていったことは、どうしても気に入らないらしい。
「私には『勝手に屋敷の外を出歩いては行けない』と厳しく言ってくるのに。これじゃあ納得がいきません。また屋敷を抜け出してレドフィル様の家に行ったとしても、文句は言えませんよね!」
「実はあれから戸締りはちゃんとするようにしてるんだよね」
「まぁ、そんなに警戒しなくてもいいのに。何もしませんよ、レドフィル様の寝顔を堪能すること以外は」
そう言われて従順に「じゃあ大丈夫だね」と警戒を解ける人間がこの世界のどこにいるのか。
いや、僕だけが、僕だから、ずっと解けないままでいるのか。
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