平穏の訪れはあっけなく

 困難を極めるかに思えたマーリネイト嬢との仲直りだったが、実際のところはそうでもなかった。


 町を巡って野菜を売り終えた後の僕は、できることならすぐにでも踵を返し家へと走って戻りたい気分だったが、それでもわずかな勇気を震わせて彼女の屋敷へと向かった。


 僕が来るのを予知していたかのように、屋敷の門前に立つなりタミヤさんが僕を出迎えた。表情は穏やかで、「お待ちしておりました」とかけてくれた言葉の抑揚にも違和感はない。しかし、焦りに支配された忙しない歩みで僕をやや強引に屋敷へと招き入れた。普段の落ち着きと余裕のある歩みとはまるで違う。


 屋敷の玄関をくぐった先のすぐそこに、彼女は立っていた。


 そこにいるのは、かつての僕が強く憧れた、可憐な少女でしかなかった。


 僕が来るのを痛いくらいに待ち望んでいたマーリネイト嬢に、昨晩の面影は欠片も残っていない。


 僕を視界に入れるなり、涙を目に滲ませ、僕の名を呼んだ声はこちらの涙を誘うくらいに震え、風に吹かれる細草のような弱々しく頼りない足取りで、彼女は僕の胸元にふわりと舞い降りた。気を失って僕の胸に倒れ込んできた、と言ってもほぼ同じかもしれない。


 聞き馴染みのない難しい単語や、詩人顔負けの詩的表現を時折含む謝罪の言葉をつらつらと並べるマーリネイト嬢。当然僕はそんな彼女に向かって「昨日はよくもやってくれたな」と語気を強めて叱れるような男ではない。僕の胸元に顔を押し当て服に涙の跡を残すマーリネイト嬢を、僕は初めて抱き寄せた。


 抱きしめた際に感じた女性らしい柔らかな肉体の感触で、ふとエミの顔が浮かぶ。


「ごめん」


「いいえ、レドフィル様は謝らないでください。……実を言うと私もそこまで詳しいことまでは覚えておりませんが、なんとなくでも、昨日の夜に自分が何をしてしまったのかはわかるのです。全ては私の責任、私のわがままが招いた結果なのです。こんなことになるのならお酒なんて飲まなければよかった。もうお酒なんて二度と飲みたくないくらいです。本当に、ごめんなさい。だからどうか私のことを嫌いにならないで、見捨てないでください……」


 あっけない。この出来事を語るのに、これ以上ふわさしい言葉はない。


 マーリネイト嬢とお酒を飲み、その際に酔いの勢いに任せて揉め事に発展。晴れない気持ちを抱えたまま夜を明かし、後々冷静になった結果、無事に僕とマーリネイト嬢との関係の間に生まれた亀裂は無事に修復。関係の修復に至るまでに、もう少しばかり苦労するかと思っていた僕は喉を狭めていた重苦しい空気の塊をほっと吐き出した。肩に入っていた余分な力もすとんと抜け落ちる。


 だが、この一連の出来事が収束するまでに、僕はマーリネイト嬢と口づけを交わし、エミと一晩を共にしたのである。それすら「あっけない」という言葉のうちに片付けてしまってもいいのかは疑問が残る。


 ふと、顔を上げると、屋敷の二階へと続く階段の途中に、マルタポー氏が微笑みを浮かべながら僕たちのことを見ていた。あっと思いマーリネイト嬢の体から自分を引き剥がし、姿勢を正す。


「レドフィル君、ちょっと来てくれるかな」


 声を捉えた耳が重たく感じるほどに、暗く沈んだ低い声だった。


 マルタポー氏は僕を手招いた後、階段を一歩ずつゆっくりと登っていった。


 説教や怒号の一つや二つは覚悟しておいた方がいいだろうかと、深くため息を吐きながらうなだれる。いくらお人好しの富豪として知られているマルタポー氏であっても、決して「怒らない人間」というわけではない。彼が溺愛する愛娘に、事情はどうであれ、悲しい想いをさせたのであれば父親として然るべき対応をとるのが当然か。


 一度引き剥がしたマーリネイト嬢がまたぴとりと僕の腕に張り付く。目尻に涙の粒を残し、目元を赤く腫らしながら微笑んでいる、幸せそうに。


「大丈夫ですよ。父には私から簡単に事情を説明してありますから」


 気を遣ってそう言ってくれたことはわかるのだが、今の僕にその言葉は不安を激しく煽るものでしかない。


 昨夜ぶりに訪れたマルタポー氏の自室は、少々物で散らかっていた。収納棚や衣類棚は開きっぱなしのままで中身がはみ出ていた。目のやり場に困るようなことはないのだが、彼の私的事情を守るためにも僕はなるべくそれらから目を逸らした。ベッドの上には大きな鞄とそこに詰め込まれるであろう荷物たち。具体的な目的は不明だが、長旅の準備をしていると言うことはわかった。


「散らかっていてすまないね。話はすぐに終わらせるから、まぁ、座ってくれ」


 昨晩もそうしたように、テーブルを挟んで僕らは向かい合って座る。マルタポー氏は組んだ指をテーブルの上に置いた。威厳に満ちた座り姿勢ではあるのだが、その表情は内心穏やかではないと言った様子で、その焦りの色は指先に出ていた。


「ネイトから事情は聞いてるよ。彼女が覚えている限りのことだけど。まぁ、お酒を飲めばこういうこともあるさ」


 マルタポー氏の口から出てきたのは、説教とは程遠い、雑談の延長線上にあるような言葉だった。


「僕を責めないんですか。彼女は『自分の責任』と言ってましたけど、何もかもが彼女のせいってわけじゃない。僕にも少なからず、いや、半分以上の責任はあると思うんです」


「あの時にどっちが悪かったかを追い求めるだけの討論はしても意味がないよ。お互いの関係が元通りになった、もうそれだけでいいじゃないか。そもそも、レドフィル君は私との約束を守ってくれたじゃないか。どこに君を責める理由がどこにある。それにほら、ネイトにとっては貴重な経験になったかなと思うからさ、これを機にお酒との向き合い方について色々考えてもらえればなーなんて考えてるんだ。まぁさすがに、もう一生お酒を飲まないっていうのも寂しい気はするけども────」


 僕としては一回ガツンと怒鳴ってもらった方が気が済むのだが、彼にそれを強いるのはかえって苦しめるだけになりそうなため、口を閉ざした。

 

「とにかくだ。一時はどうなるかと思ったけれども、これからもネイトとは仲良くしてやってくれると嬉しいよ。君と知り合ってからのネイトは随分と幸せそうでね。よっぽど君のことが好きなんだと思うよ」


 マルタポー氏は椅子から立ち上がり、ふくよかな右手を僕の方へ差し出した。


 何を言い返すでもなく、僕も立ち上がってその手を握り返した。


「ネイトのこと、よろしく頼むよ。レドフィル君」


「えぇ」


 「はい」とは答えにくかった。


「じゃあ私は仕事の準備をするよ。もうちょっとだけ荷造りに時間がかかりそうなんでね」


「長旅ですか」


「そうなんだよ。仕事でかなり遠い方まで出かけなくちゃいけなくてさ。しばらくは家に帰れないだろうから、部屋中をひっくり返して旅の支度をしているんだけどこれがなかなか大変でね……。仕事じゃなきゃ、旅に出るのは好きなんだけど────」


 ぶつぶつと不満のような言葉を漏らしながら、マルタポー氏はまた荷造りに戻った。


 彼の作業の邪魔になるだろうからと、僕はこれで部屋を出ることにした。「では僕はこれで」と短く別れの言葉を残し、部屋の扉に手をかけようとした時に、マルタポー氏の「あぁそうだ」という声が背中にぶつかる。


「肝心なことを忘れていた。私が仕事に出ている間、庭の畑の手入れはタミヤに任せようと思っていたんだけど、出来ればレドフィル君にも手伝ってもらえないかな? タミヤに力仕事を任せるのはどうしても気が引けてね。やってくれと頼めばタミヤもやってくれるんだろうけど、やっぱりレドフィル君みたいな頼れる存在には素直に甘えた方がいいなかと思ってさ。もちろん報酬は用意するよ。仕事から帰ってきたら、働いてくれた分きっちり渡すからさ」

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