微笑む朝日が眩しくて

 窓から差し込むきらびやかな朝日と、野鳥のさえずり。それから寝室まで香る料理の匂いを受け、僕は目を覚ました。睡眠時間はいつもの半分か、それ以上に少ないはずなのだが、目覚めはさっぱりとしていて、睡眠への満足度も異様に高い。寝起き直後のぼんやりとした気分と、夜の冷えをまだ帯びている朝の外気に惑わされることなく、僕はゆっくりと体を起こした。


 なんとなく視線を枕元に向けると、癖のついた赤い髪の毛が数本落ちているのが目に入った。エミのものだ。彼女は既にベッドから抜け出して、僕が起きないうちに身だしなみを整え、台所で朝食の準備をしてくれているのだろう。


 髪の毛を指でつまみ、顔の前に持ってくる。暗い赤は日の光を受けてより鮮やかな赤の輝きを放つ。エミの髪の毛を手に入れたからといって、特別やましい気は湧かず、つまんだ髪の毛を放し息を吹きかけ、どこかへ飛ばす。ほんの少しだけ宙を舞う髪の毛の行方を目で追ってみたが、すぐに見失った。


 軽く布団と毛布を畳んでベッドの端に寄せ、位置のずれた枕を定位置に戻す。ベッドから立ち上がってまず大きく背伸びをして、無理な体勢で寝たことが原因で生じた体の凝りをほぐす。胸をそらし、肩を大きく回し、腰をひねり、ふくらはぎを伸ばす。朝の冷えた空気を跳ね返すように、僕の体はじんわりと熱を帯び始めた。


 それにしても、僕一人しか住んでいないはずの家の中に自分以外の人の気配があると、安心や喜びよりも先に不気味さを感じてしまう。長すぎる自由気ままな一人暮らしが招いた悲劇とも言えるだろう。


 寝室を出て、美味しそうな香りに誘われるようにふわふわとした足取りで台所へと向かう。


 さして料理をするわけでもない僕には無用の長物でしかなかった台所だったが、こうしてまた活躍する日が来るとは。それもあの料理上手のエミに使ってもらえているのだ。ホコリを被って、寂しい思いをしていたであろう台所も涙を流して喜んでいるに違いない。

 

「おはよう、エミ。早起きだね────って」


 台所に立つ人物の姿を見て、僕は自分の目を疑った。呼吸が止まる。


 さらりと肩に落ちる艶やかな黒髪。触れれば崩れそうなほど繊細で華奢な体つきはエミのものとはまるで違う。僕が見たのは後ろ姿だけだったが、彼女が誰なのかはすぐにわかった。思わず彼女の目に自分の姿を捉えられないよう、さっと身を隠す。


 どうしてここにマーリネイト嬢が。


 昨日僕はエミと夜を共にしたはずだ。それに昨晩は家の扉に鍵をちゃんとかけたから、彼女が僕の家に侵入することは力づくでもなければ不可能だ。


 昨日の出来事が全て夢だったとでも言うのか。


 僕がエミだと思っていた人物は、実はマーリネイト嬢だったとでも。


「レドフィル?」


 台所から聞こえてきた声はエミのものだった。それでも恐る恐る台所を覗くと、そこにいたのはちゃんとエミだった。


 なぜか酷く怯えている僕のことを不思議そうに見つめながら、彼女は火にかけている鍋の中を、へらでぐるぐるとゆっくり混ぜていた。


「あぁ、いや……エミのことがネイトさんに見えて焦っただけだよ。寝ぼけてたみたいだ」


「さすがに寝ぼけすぎでしょ。どうやったら私とマーリネイトさんを間違えるのよ。あぁそうだレドフィル。お皿ってどこにある? 朝ご飯を作ったはいいんだけど、盛り付けるお皿が見つからなくて」


「あぁ、それなら後ろの棚の一番上に────」


 寝ぼけ気分は一気に吹き飛んだ。


 朝食を終えて、後片付けも終わり、お互いが今日の仕事に向けて身支度を整えている時だった。


 衣類をしまっている棚から新しい服を取り出し着替えていると、背中に柔らかな感触がふわりと押し当てられる。ん、と思った次の瞬間には僕の腰はエミの腕に抱かれていた。


「エミ、もう、そういうのは」


「家を出るまではこれくらい別にいいでしょ。だからもう少しだけでいいからこのままでいさせて。私、今すっごく幸せだから」


 幸せ、と言っている割には随分と悲しそうな声で話すじゃないか。


 声には出さなかったがそう言う気持ちを密かに胸に抱え、エミのわがままに付き合ってやった。


 エミに抱かれたまま、僕はじっとその場に立ち尽くし、衣類が収納されている棚の中をしばらくの間じっと眺めていた。深い理由はない、それ以外にすることがなかったせいだろう。


 棚の中に、やや乱雑な畳まれ方をして収められている服は、家のテーブルやベッドがそうであるように、どれも僕に似合いのものばかりだ。派手さは皆無──男物の服に豪華な装飾が施されているのは稀で、ましてや畑仕事という肉体労働に勤しんでいる僕がそんな服をそもそも好むわけがないのだが──で、着心地もそこまで良いものではない。ただ思い出と愛着が染み付いているだけの安価な衣類でしかない。


 女性は自分に似合う服を探すのが好きだと噂で聞いたことがある。またその服を着るのも、眺めるのも好きだと。その噂話が真実であるかどうかは一度も確かめたことはないが、エミもそれに当てはまるのだろうか。


 服は町の服屋に行けば商品棚に並んでいるし、やかましいくらい細かな注文を押し付ければこの世界に一つだけの服も作ってくれる。しかし、どれもこれも何の対価も支払わずにというわけにはいかない。服を手に入れるためにはお金というものは必要不可欠だ。


 酒場で働き詰めの彼女は、我慢をしているのだろうか。自分もお洒落な格好をして着飾りたいと、美しい女性でありたいと心のどこかでは思いながらも、その欲を抑え込んで、今もこんな普通の、悪く言えば地味な格好でいることを受け入れているのだろうか。


 腰の辺りにあるエミの腕、正確には彼女の着ている服の袖にそっと指を這わせる。マーリネイト嬢が着ていた服の感触のそれとは随分と安物に感じる。


「なぁに?」


「いや、なんでもない」

  

 受け入れ続けてきたはずの事実に、突然僕の心は拒否反応を示す。「悲しい」とか「寂しい」とかとはまた違う、これはきっと「虚しい」という感情のやつだ。心というか体のど真ん中にというか、僕が僕であると認識するために一番大切な部分に大穴がポッカリと開いたような、そういう感情が僕を包んだ。


 僕だって、君に似合いそうな服くらい選んでみたかったんだけどな。


 僕にはやっぱり、エミを幸せになんて出来ない。彼女にまた別の我慢を強いることになってしまう。


「ねぇレドフィル。この後マーリネイトさんのところに行く用事はある?」


 僕の背中に張り付いたままのエミが、僕のお腹を手のひらで円を描くように優しく撫でながら妙なことを訊いてきた。


「…………いや? 特には何も。というか、今はあんまり彼女のところには行きたく────」


「そうだとしても、仲直りくらいはちゃんとしてほしいかな。自覚はないかもしれないけど、レドフィルも結構気にしてるだと思うよ、昨日のこと。だからさっき私とマーリネイトさんを見間違えたんじゃないかな。それから、レドフィルとマーリネイトさんの仲が悪いままだと、私も嫌かな」


「……わかった。仕事が終わったら、ちょっとだけ屋敷に寄ってみる」


「約束ね。この機会に色々本音で話し合ってみれば? そういうのって、喧嘩した時じゃないと難しいからさ」


 するりと腕を解き、エミは僕から離れた。彼女のぬくもりと感触が背中に残り、肉体的な束縛感が腰の辺りに漂っている。


 部屋から出ていく寸前、エミは「あっそうだ」と声を出した。くるりとこちらを振り向いたエミは、朝日と並ぶほど眩しい笑顔を僕に向ける。


「昨日はありがとね、レドフィル」


 それだけを言い残して、エミは足早に家を出ていった。別れの声をかける隙もなく。

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