月下の寝室で

 雨は止んだ。風も止んだ。星と月を覆い隠していた暗い雲も身を引き、世界の淵から溢れそうなほどの闇に満ちた世界にささやかな光が戻った。無事に家に帰るために、この機を逃すわけにはいかない。


 芯まで濡れた石畳は、雲の隙間をくぐり抜けた月の光を受けて、波の穏やかな月下の湖を思わせる光の凹凸が浮かび上がる。湖面に足を落とすと、ぴちゃっと軽い音を立てて水が跳ねた。


 酒場の玄関を出てすぐの場所。ひんやりと湿った空気に身を晒しながら、僕は夜空を見上げていた。


 エミが酒場の玄関扉にそっと鍵をかけた。「よし」という小さな独り言も、この静けさの中ではちゃんと僕の耳にまで届く。

 

「お待たせ」


 月明かりのせいか、僕の隣に立った彼女のはにかんだ笑みが夜の中でもよく見える。


 僕たちはこれからようやく家に帰る。最初の一歩を踏み出したのはほぼ同時だったが、わずかにエミの方が先だった。


 まず最初にエミを彼女の自宅まで送り届けて、そのあとは僕一人で家まで帰る。それが普段通りの道のりだが、今回は違う。まず最初に僕の家にエミと一緒に向かう。その後にどうするのかは、まだ決めていない。


 自分の輪郭を認識するので精一杯な程の闇が僕らを冷たく包み、熱なんて存在しないはずの月光にかすかなぬくもりを覚える。人気のない町の通りに反響する二人分の足音がやけにうるさく感じるほど静かで、ただ歩くだけの帰り道の退屈をしのぐための会話も憚られた。


 何も会話を交わすことなく僕らは並んで町を行き、町の中心部を抜け、やがては僕の家の前に着く。


 闇の中を手探りで扉の鍵を開けようとしていると、僕の背後で「ふふっ」とエミが声を漏らして笑った。


「久しぶりだなと思ってさ。レドフィルの家に来るの。一回だけお泊まりに来たのが最後かな?」


 周囲に民家は少なく、そこまで神経質になる必要は感じなかったが、エミの声量はとても控えめだった。


「いつの話だよ、それ。僕たちが小さな子どもだった頃の話じゃないか。よく覚えてるね」


「大切な思い出だからね。『覚えてた』じゃなくて『覚えていたかった』って方が正しいかな。ていうか、レドフィルもちゃんと覚えてるじゃん」


「そりゃあ、まぁ────」


 若干手間取りつつも無事に解錠に成功し、玄関扉を大きく開けて家に入る。ぎぃと軋む音を立てながら、エミの手によって扉は閉じられた。鍵もしっかりとかけた。


 残り少なくなった蝋燭の一本をテーブルの中心に立て置き火を付ける。ぼぅっとゆらめく火が周りを暖かい光でぼんやりと照らす。


 ざらりと使い古されたテーブルの天板を手のひらで撫でると、マーリネイト嬢の屋敷や酒場にあったテーブルのそれとは明らかに劣る質感に刺激され、貧しく惨めな気持ちがふつふつと湧いてくる。だからと言ってこの愛着のあるテーブルに別れを告げることは難しい話であり、出来ることならこのテーブルが役目を終えるその時まで寄り添っていたいと感じる。


 僕が座った椅子の右隣に、エミは向かい側に置いてあった椅子をわざわざ運んできて座った。この夜の肌寒さを凌ぐように肩と肩が触れ合う距離まで僕らは身体を寄せ合った。


「あの時みたいに、泊まっていくつもり?」


「まさか」


 僕の質問に、エミはぴしゃりと言葉を返す。


「レドフィルがそんなひどいこと、するわけないでしょ?」


 当然である。相手がエミであれ誰であれ、女性をこんな夜中にひとりで歩いて帰らせるわけがない。

 

「ベッドが狭くて寝心地が悪いとか、そういう苦情は受け付けないからね」


「はいはい」


 苦情は受け付けない。同じようなことを今日もどこかで口にした気がする。


 それからしばらくは眠気を誤魔化すために思い出話に浸り、あんなこともあった、こんなこともあったと声を控えながらも僕らの夜は大いに盛り上がった。


 蝋燭が半分ほどの長さになった。火はまだ熱と光を力強く辺りに放っていたが、僕らの会話はピタリと止んだ。軽い身じろぎのせいで軋む椅子やテーブルの音、咳払い、外から聞こえる虫の鳴き声などが聞こえるばかりであった。


 こういう時の僕は、いつも浮かぶ言葉を全て胃の底へ押し込み相手の様子を伺うことに徹するのだが、今夜ばかりは珍しく自分から動くことにした。


「エミ、さっきの話の続きなんだけど」


「うん」


 『さっきの話』というのが思い出話のことではなく、僕らが酒場を出る前に交わした最後の会話を意味していることを、エミはすぐにわかってくれた。火の灯りの中に浮かぶ、頬杖を突いたエミの横顔はやはり大人びた美しさを持っており、僕の男としての感性を強く刺激した。


「エミは、その、本当にそれでもいいの? やっぱり僕には、エミとネイトさん、君たちのどちらかを今すぐ選ぶなんてことはできないし、これから何があってもその考えが変わる気がしないんだ。僕には他人に誇れるような財産なんてひとつもないし、仕事の稼ぎも不安定でみんなと比べたら少ない方だと思う。おまけに僕は頭が良いわけでもないし、畑やら野菜やらのこと以外はさっぱりで……。こんな僕に誰かを幸せにする力なんてないと思う。だから、考え直すなら今のうちというか────」


「いいよ、それでも。私、レドフィルと一緒にいられるだけで幸せだからさ。お金があるとかそんなの関係ない。それに、もしレドフィルがネイトさんと結婚しても、レドフィルは私のこと絶対に忘れないでしょ? 私の大好きだった人が私のことをずっと覚えててくれてたら、私はそれでも充分幸せ」


 エミの語る「幸せ」と僕の考える「幸せ」の間には、大陸を真っ二つに裂くほどの断崖のような、凄まじく大きなずれがあるように感じた。


 僕がいるだけで「幸せ」とエミが語るのなら、僕はエミが隣にいるだけで「幸せ」なのだろうか。その感覚は、考えてみてもよくわからなかった。


 試しにテーブルの上に右手を乗せて、エミに目配せをする。僕の視線に気づいたエミは何も言わずに僕の手に自分の左手を重ね、そっと指を絡める。


 暖かくて柔らかい。ただそれだけ。エミはわずかに口角を上げながら僕らの重なった手を、まさしく幸せそうに見つめている。何も感じない僕がおかしいのか、こんな些細なことでも幸せだと感じられるエミが特別なのか。


「そろそろ寝る? ちなみに私はだいぶ眠い」


 エミが右手で口を隠しながら大きくあくびをした。それにつられて僕もあくびをした。大口を開けた僕を見てエミがまた微笑んだ。


 目尻に滲んだ涙を指でさっと拭って、僕は「よし」と呟いた。重なり絡み合っていた手をするりとほどき、ぎぎぎと床と椅子の足が擦れる音を鳴らしながら僕は立ち上がった。


「寝よっか」


「うん」


 短くなった蝋燭の先で揺れる火に、エミがふっと息を吹きかけた。頼りない月明かりが照らす部屋の中に、白い煙が一本立ち上る。


 エミの輪郭も椅子から立ち上がり、寝室へと向かう僕の後ろをついて歩いてきた。


 冬の寒さに凍えることは間違いないほど薄っぺらい毛布と、何年も使い続けてボロボロの布団、足を伸ばすとくるぶしから先が少しはみ出すほどのみっともないベッド。僕みたいな貧乏人にはこれ以上ないほどふさわしいベッド。マーリネイト嬢の部屋に置いてあったベッドの感触よりも劣っていることは間違いないが、それでもこっちの方が僕の肌にはよく馴染む。


「これ、二人乗った瞬間に壊れたりしないかな」


「それは考えてなかったな」


 僕の睡眠を長く支え続けてくれたこの相棒が、人間二人分の重さに耐えられるのか。このベッドの上で誰かと朝を迎えたことが一度もなかったため、そんなことは今になってようやく思い浮かんだ致命的な疑問だった。


 その疑問を解消する方法はただ一つ。二人でベッドの上に乗ってみるしかない。


 ぎしりと嫌な音がひとつだけ鳴ったものの、相棒は思いのほか足腰がしっかりしており、僕とエミの二人分の重みをしっかりと支えてくれた。


 二人がベッドの上に寝そべり、小さな毛布と布団を二人で分け合う。出来る限り身を寄せ合い、少しでもベッドの上に体を乗せられるようにする。一人で寝る分には何の問題もなかったはずのベッドがこんなにも狭く感じるとは思わなかった。


 エミが「ふふっと」笑った。彼女の吐息が顔にかかる。


「狭いね、やっぱり」


 暗闇のせいで顔が見えないことをいいことに、僕はわかりやすくムッとした表情をエミに向けた。


「でも幸せ」


 目を閉じているのか開いているのかさえはっきりとしない暗闇の中に、布の擦れる音が響く。


 僕らが眠ったのは、それからしばらく後のことだった。

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