そして雨はおだやかに

 大きく溜息を吐いた後のエミは、目の前のテーブルに頬杖をついて物憂げな表情でどこか遠くの方を見つめていた。遠くの方、と言っても視線はすぐに酒場の壁にぶつかる。そこに何かがいるわけでもなくただ呆然と、瞬きの回数も少なめに壁を見つめていた。


 そんな彼女に声をかけられるわけもなく、僕は勢いの衰えない雨音に耳を傾けながら、「早く雨止まないかなぁ」なんて呑気なことを考えていた。こういう時には、退屈凌ぎとしてエミと何気ない会話を交わすのが最適なのだろうが、それも少し前のやりとりを最後にピタリと止まってしまった。


 エミと一緒にいる時は沈黙すら楽しめていたような気がするのだが、今はどうだか。


「ねぇレドフィル。ちょっと考えてみてほしいんだけどさ」


 絶妙に居心地の悪い沈黙を先に破ったのはエミだった。視線は壁の方に向けられたままだったが、頬杖をついた姿勢をやめて手は膝の上に戻しながら彼女は静かに呟いた。


「マーリネイトさんは、レドフィルのこと好きなのかな」


 なぜそんなことを訊くのかと尋ねる気も起きないくらい奇妙な質問だった。


「…………そうなんじゃないかな」


 とりあえず口を開いて、あとは喋りながら話をまとめることにした。マーリネイト嬢と出会ってから今日まではほんの数日の出来事。まだそこまで長い付き合いがあるわけではないが、今まで彼女と過ごしてきた時間や会話の中身を思い出しながら、エミの質問に答える。


「好きでもない男に恋文を書くなんて想像がつかない。しかもあんなに熱心に。おまけに、初めて顔を見合わせた時なんか、いきなり抱きついてきたからね。僕の顔を見るなり、こう、小走りでタタタタっと走ってきてさ。それに、今日なんか『愛してる』とまで言われたんだよ? あんな表情で見つめられながらそんなこと言われたらさ、卑怯だよ」


「嬉しかった?」エミがやっと僕の方を見た。


「そりゃあ僕だって一応男だし、女の人に好意を持たれて嬉しくないわけがない。しかも相手はあのマーリネイトお嬢様なんだよ? 恋文をもらった時なんか馬鹿みたいにはしゃいで、似合いもしないくせに小綺麗な格好までして屋敷に遊びに行ってさ……。今思うと、だいぶ浮かれてたな、あの時の僕」


 今とはまるで違う様子の、過去の自分の姿を思い出して苦々しい笑みを浮かべる。あの時の僕がそのままマーリネイト嬢の部屋にお呼ばれしていたのなら、今頃はどうなっていたのだろう。誘惑に負け、全てをお酒のせいにして彼女と一晩を共にしているのだろうか。可能性を考えることはできても、その先の想像がちっとも膨らまない。やっぱり僕がここにいるのは偶然ではなく、必然なのかもしれない。

 

「じゃあさ」エミが話を続けた。


「レドフィルは、マーリネイトさんのこと、好き?」


 いつか訊かれるであろうと心のどこかで思っていたその質問を、まさかエミから訊かれるとは思っていなかった。口から鼻から吸った空気が喉を通り抜けている感触は確かに感じられるのに、なのに息苦しさを覚えるほど胸が詰まった。心臓の鼓動の音は平常時の倍以上に大きく超えて、そのせいか脈打つたびに僕の胸が張り裂けそうなほど膨らんでいるような錯覚に陥る。


 誰にも訊かれたくない質問だったから僕はこんな思いをしているのか。それともエミにこの質問をされたからここまで動揺しているのか。


「どうだろ。よくわからないなぁ」


 話の流れを断ち切らないために、僕があまり深く考えずに出した答えは、肯定も否定もしない、曖昧な答え。それは最も僕らしいと言える答えだった。何もかもを白く濁る煙の中に放り込み、その煙に紛れて自分も逃れようとする。今回の場合だと、僕は「マーリネイト嬢のことが好きかどうか」という問いかけに対し答えを出すことから逃げ出した。


 直感的に、とりあえずで出した答えがこれなのだから、僕はもう根っこからこういう人間らしい。周りから「もっと胸を張って生きろ」と言われたところで、人間としての芯がこういう物で出来上がってしまっている以上改善は見込めない。かつて僕にそういう助言をくれた友人たちや、こんな性格をしているせいでじれったいような気持ちにさせられているであろう僕の周囲の人間たちには、今この場で謝罪させてもらいたい。


 僕はこういう人間だ。


 そんな答えに呆れた様子を見せることなく、エミは意見を返した。


「どうして? マーリネイトお嬢様から『好き』とか『愛してる』とか言われて嬉しかったんでしょ? だったらレドフィルも同じ気持ちじゃなきゃ変じゃない?」


「それとこれはまた別な気がするな。『好き』と言われて嬉しかったから、僕も彼女のことが好きなんだとは思えない。ああ言われて嬉しいと感じるのは、どっちかというと、男としての本能的なものなんじゃないかな。それから一応言っておくけど、僕は彼女のことは嫌いじゃないよ。一緒にいて嫌な気分になるとか、ああやって付き纏われて鬱陶しいと感じたことは今のところない」


 今のところ、は。


 今夜見たマーリネイト嬢は、「こうすればあなたはどうすることもできないでしょ?」という風な、他人の弱みや心の隙間を突く卑怯な立ち振る舞いで僕を弄び、良く言えばお手軽に、悪く言えば雑に僕を手に入れようとしていたような気がしてならない。


 今後も彼女と交流を深めていく中で、今夜のような出来事が、もしくはそれに近い出来事が繰り返し起こるようであれば、僕も彼女との接し方を考え直さなければいけなくなる。場合によっては「二度と関わらないでくれ」と僕の口から告げなければいけない日が来るかもしれない。


「そもそも恋愛や結婚っていうのは、長い時間をかけながらお互いのことをちゃんと理解し合って、『この人と最期まで一緒にいたい』と思える人とするべきだと僕は考えるんだよ。そう、僕が何よりも大事にしたいのはそこなんだよ。あくまで持論だから周りはどう思ってるからわかんないけどさ。で、僕とマーリネイト嬢はまだ知り合って間もない。お互いのことはよく知らないし、彼女と最期まで一緒にいたいかなんてまだ決められない。なのに愛してるだの結婚しようだのって言われてもな……」


「長い時間をかけてお互いのことを、ねぇ。ふーん」


 気持ちの昂りに任せて長々と熱く語ってしまった。


 僕の喋りが一瞬だけ止まった瞬間に挟まれた、エミの興味関心の一切を失ってしまった返事を聞いて、僕はやっと冷静さを取り戻した。僕の話の中で何よりも重要そうな部分を復唱しているため話はちゃんと聞いてくれたようだが、これ以上話す気にはなれなかった。


 エミはまた頬杖をついて前を向き、空いている右手をテーブルの上に乗せて、人差し指の先を天板の上にとんとんと繰り返し落としていた。ふとエミの横顔に視線を向けると、彼女の表情には暗い雲がかかっていた。考え事に耽り、答えの見つからない疑問に悶々と思い悩む表情のまま、じっと壁を見つめている。その横顔の美麗さは、マーリネイト嬢と同等とは言い切れないが、それに迫るものがある。「影のある女はいいぞ」と自慢げに語ってきた女慣れしている友人の言葉をふと思い出す。


 エミの方を向いていた体を正面に向き直し、テーブルの天板に両腕を乗せる。


 天板に手が乗った瞬間、ちくりと左手首に針で刺されたような痛みが走り、口から「痛っ」と小さなうめき声が漏れる。さっと左手首を返し、痛んだ箇所をじっと見る。手首の内側の皮がほんの少しだけめくれて、薄皮一枚の向こうには乾き始めた血の赤が顔を覗かせていた。


 そこはつい先ほどマーリネイト嬢が爪を食い込ませていた箇所だった。傷の数は四つ、あまり目立たない小さな傷だったため今になってようやく気づいた。


 やってくれたな、あのわがまま娘。いったいどれだけ強い力で握っていたんだ。


「ケガ?」僕の手首を見てしまったエミが、不安そうな声色で尋ねた。嘘をつくつもりはなかったため、正直に「ネイトさんと揉めた時に出来たっぽい」と答える。エミから「ちょっと見せて」と言われたため、手のひらを上に向けて差し出した。


 傷の部分に直接は触れないよう注意深くエミは僕の手を取り、赤色をじっと見る。応急処置をしてくれるわけでもないのに、他人の傷口なんか見ていて楽しいのだろうか。


 「もういいかな」と言っても「もうちょっとだけ」と僕の手を軽く握ったまま、エミは僕の手に視線を落とし続ける。


「レドフィルの手って綺麗だよね」


 その言葉を皮切りに、エミは僕の手を優しく揉み始めた。


 手の肉を柔らかくほぐすような揉み方は、程良く心地が良い。その揉み方は次第に、指同士を絡め合うものになり、僕とエミの指同士が密にまぐわっているような、奇妙で妖艶な光景が繰り広げられていた。

 

「エミ?」


 その艶かしい指の動きが何を意味するのか。今の僕にはわかる。わかってしまう。


 激しく降り注いでいた雨の音が、少しずつ消え始めた。

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