忘れられない忘れたい夜

 微睡んでいたはずのマーリネイト嬢の目はいつの間にか大きく開かれて、潤んだ瞳が僕を見つめていた。ではそんな彼女を見ている僕は一体どんな表情をしているのだろうか。


「それで? 僕に弄ばれた気分にでも浸っているのかな、今のネイトさんは」


 エミという忘れ難い存在を強く意識させられ、返す言葉を見つけられない僕には虚勢を張るくらいのことしか出来なかった。普段通りの振る舞いができないのは酔いのせいか。


「いいえ全く。それどころか、恋敵の存在を確かめることができたのでむしろ燃え上がっています。やはり恋物語はこうでなくては。エミ様も素敵な女性ではありましたが、レドフィル様を譲るつもりは毛頭ありません」


 堂々と本心を語るマーリネイト嬢の前では、酔いの勢いに任せて偽物の強気な態度をとることしか出来ない自分自身の存在がやけにちっぽけな存在に思えてならなかった。元々自分が弱小な存在であることは自覚しているつもりだったのだが、今回のはその程度があまりにも違う。


「ネイトさん、本当はちっとも酔っていないだろ。今さっきのは全部、演技なんじゃないのか」


「いいえ、ちゃんと酔っていますよ。でなければ、レドフィル様に大胆に迫ることなんて出来ませんもの」


 彼女の左手が僕の頬から離れ、細く美しい人差し指が僕の下唇をゆっくりとなぞった。この後に及んでも、彼女はこの先の展開を望んでいる。僕の胸板を撫でていた右手は徐々に徐々に位置を下に移し、僕のおへそあたりをまたいやらしい手つきで触り始めた。つぅっと彼女の指が這う度に、むずむずとした不快とも快感とも言い難い感覚が僕の全身を走り抜ける。口から漏れ出そうになる声を必死に押し殺す僕の様子を、マーリネイト嬢は心底楽しそうに微笑みながら眺めていた。


「ですから、これから起こる全ては、私が酔っていたことのせいにしてしまえばよいのですよ。レドフィル様が私を手篭めにしたのではなく、私自らがレドフィル様を誘ったのだと。そういうことにしてしまえば、何も問題はありません。父は私に甘いですから」


「……アハ、ハ、ハハ。きっとそうだろうね。君のせいにしてしまえば、マルタポーさんは何も言えないだろうね」


 マルタポー氏の優しさにつけこむ非情な人間がこの世界のどこかにひとりはいるだろうと思っていたが、そのひとりがまさか彼の愛する娘だったとは。


 何か皮肉でも言ってやろうとしたが特に何も思いつかず、僕は乾いた笑みを浮かべた。そんな僕の微妙な反応を見てか、マーリネイト嬢はわかりやすく不満そうな表情を浮かべて僕を見つめた。彼女がこの先を望む気持ちが何をどうされても変わらないのと同じように、僕の意思は変わらず、雰囲気に流されることなく理性を強く保っていた。


「ではせめてキスだけでも。体を重ねることが嫌でも、それくらいのことなら大丈夫でしょう?」


 マーリネイト嬢が自身の唇に人差し指を添えながら言った。僕の視線も自然と彼女の唇へと移る。薄紅色の唇はほんのり濡れていて艶があった。触れなくてもわかるくらいに柔らかく瑞々しいその唇を、かつての僕は求めたことがある。自分の唇をあのマーリネイト嬢の唇と重ねることができたならと焦がれたことがある。しかし今はどうだ。あれだけ欲していた宝が目の前にあるというのに、全く手に入れたいと思えない。


「それくらいのことって……。君にとってはそうだとしても、僕にとっては大したことなんだけど」 


 僕の弱気な発言に耳を貸す様子はなく、マーリネイト嬢は目を閉じ唇を軽くすぼませた。その隙を突いて逃げ出そうにも、僕の左手首にはいつの間にか彼女の右手が巻き付いていた。無理やりその手を振り解こうとすると、爪を鋭く刺して僕をこの場に何とか繋ぎ止めようとする。


「この手を離してくれたらしてあげるよ」


「キスしてくれたら離してあげます」


 わがままだな、と呆れつつ、僕はマーリネイト嬢の体に覆いかぶさるように四つん這いになり、彼女の顔を真正面から見つめた。左手首には相変わらず拘束具が絡みついているが、幸いにも右手は自由だった。空いている右手を彼女の左頬に添え、せめてもの雰囲気づくりに努める。


 童貞が必死こいて作り上げた安っぽい雰囲気に彼女はどうやら満足したらしく、無邪気な子どものように「えへへ」と笑った。


「一応言っておくけど、僕これが初めてだから。苦情は一切聞かないからね」


「好きな人とキスができるのに、わざわざ苦情を言うような女に見えますか?」


 彼女の微笑みすら今では何だか憎らしい。「さぁいつでもどうぞ」と囁いて、僕を受け入れる心の準備を整えたマーリネイト嬢は、再び目を閉じた。


 これはお酒のせいだ、僕も彼女も酒で酔っているから僕はこんな目に遭っているんだ、と自分に言い聞かせ覚悟を決める。ゆっくりと顔を下ろし、その時に備える。互いの唇が小指の先すら入り込めないほどの距離まで近づくと、マーリネイト嬢の息遣いが強く感じられて、自分が今何をしようとしているのかが嫌と言うほど意識させられた。


 もうここまで来たのなら後戻りはできない。最後の距離を埋め、僕は自分の唇を押し当てた。柔らかで、ほのかにお酒の香りがする甘い口づけ。だがしかし、僕の胸の中に生じたざわつきを、性的興奮の一種と勘違いするのは無理があった。


 これくらいでもういいだろうと唇を離そうとしたら、マーリネイト嬢の手が僕の後頭部を押さえつけた。口づけは一層激しさを増し、唾液の混ざり合う水音だけを響かせながら、僕の唇はマーリネイト嬢に独善的に貪られた。


 彼女の舌先が僕の口の中に入り込む寸前のところで僕は彼女の拘束からなんとか抜け出すことに成功した。大きく息を吸い込みながら、すぐさまその場から退き、意識せずとも手の甲で口の周りを拭っていた。


 今夜はもう二度と同じことを繰り返さないためにベッドからも立ち上がる。拭った口元に残った、乾いた唾液の跡にかすかな不快感を覚えた。


「……今日は、もう、帰る。僕も、君も、そろそろ酔いを覚ました方がいいよ、多分」


「あぁ、それは残念。レドフィル様と一緒に朝を迎えたかったのですけど」


「僕はもうここにはいたくない。なんなら、今日のことを全部忘れてしまいたいくらいだよ」


「必ず忘れますよ。だって私たち、酔ってるんですから」


「そうなってくれると助かるんだけど」


 一度もベッドの方を振り返ることなく会話を終えた後、僕は部屋を出た。彼女の「また明日」と言う声が背中に当たったような気もしたが、聞こえないふりをした。


 マーリネイト嬢の部屋を出て、マルタポー氏に別れの挨拶をすることもなく、足早に屋敷の中を駆け抜け玄関付近にたどり着く。誰とも出会うことなくこのまま静かに屋敷を抜け出せればと思っていたのだが、不運にもそこにはタミヤさんがいた。僕が初めて屋敷に訪れた時に真っ先に見たあの印象的な絵画、『夕凪の姫』を彼はじっと眺めていた。


 僕の気配に気づいたタミヤさんは、僕の方を見てにこりと微笑んだ。


「おや、思っていたよりお早いご帰宅のようで」


「はい。酔いが深くなる前にお開きにしようということでまとまりました。とても楽しい夜になりましたよ」


 見え透いた嘘だ。


「帰り道はどうかお気をつけて……もうじき雨が降り出す予感がしますから」


 かしこまった態度で、客人との別れ際にはそう告げるのが当たり前だという風な口調でタミヤさんは僕に頭を軽く下げた。


 この屋敷に仕えるし使用人として、そんなことはするはずがないであろうと信じつつも、もしかしたらのことを考えて僕はタミヤさんに尋ねた。僕の口からこぼれ出た「あの」という不安げな言葉に、タミヤさんは「はい」と返事をした。


「何か聞こえましたか? 僕らの会話」


「……さぁ、何も聞こえませんでしたな。私はずっとここにおりましたから」


「ずっとですか」


「えぇ。ずっとここに。それに、もし何か聞こえたとしても、聞かなかったふりをするのも使用人としての仕事の一部ですから」


「そうですか」


 おかしな質問をしてしまったことへの謝罪と、とても良い夜を過ごせたことへの感謝の気持ちを込めて、僕はタミヤさんに向かって頭を下げ、最後に「では」と一言だけ残して僕は屋敷を出た。


 体に纏わりつく外気は重たく湿っている。空には暗い雲が隙間なく漂い、星と月の明かりを徹底的に遮断していた。遅かれ早かれ、間違いなく雨が降る。


 暗い道をひとりで歩くのは心細い。しかし、その『心細さ』が僕の体の中に残る酔いと火照りを。少しずつ、さましていった。

 

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