酔い心地

 二本用意したお酒をどちらも半分ほど飲みきり、お皿に乗っていたお茶菓子のほとんどを食べ終えた頃。僕はうっすらと「酔い」の気配を感じていた。宙を浮いているようなふわふわとした錯覚に、体の内側から生じるほのかな熱。そういう酔いの感覚を、僕の少ない語彙と幼稚な表現力で巧みに表現することは叶わないが、心地よさを感じているのは間違いない。


 しかし、今夜初めてお酒を飲んだマーリネイト嬢は、初めて味わった「酔い」についてどう思うのだろうか。僕の目の前にいる彼女の様子を見るに、あまり良い思いはしていなさそうだが。


 気のせいだと思う方に無理があるほどマーリネイト嬢の頬は赤らみ、とろんと蕩けた目はどこか遠くの方を見据えている。間違いなく酔っているはずなのだが、彼女がお酒を飲む手を止めることはない。水の中を漂うような優雅さを纏った非常にゆったりとした動作でカップに口をつけ、躊躇なくお酒を胃の中へ流し込んでいく。


「ネイトさん、そのあたりで止めておいた方がいいんじゃないかな」


「えー? 私、まだまだ飲めますけどぉ。それにぃ、お酒もまだ残ってるじゃないですかぁ、なのにここで止めちゃうなんて名残惜しいじゃないですかぁ」


「そんなこと言ったって、もうかなり酔ってるじゃないか。飲み過ぎでネイトさんが倒れでもしたら、困るのはお互い様なんだよ」


「そんなぁ、私全然酔ってないのにぃ」


 「酔ってない」と自分で言うマーリネイト嬢の、やけに間伸びした舌足らずな喋り方は酔っ払いのそれと同じだった。


 申し訳ないとは思いつつも僕は彼女にこれ以上お酒を飲ませないように徹することに決め、マーリネイト嬢の手からやや強引にカップを奪い取った。「もうちょっとだけ」とせがむマーリネイト嬢を甘やかしたりすることはせず、お酒の保存容器には蓋をして、カップに残っていたお酒は僕が全部一人で飲み干した。


 お酒を取り上げられたマーリネイト嬢は不満そうな表情を浮かべながら、テーブルの上に両腕を乗せて、背骨を柔らかくして楽な姿勢をとった。頬杖をつき、手のひらに顎を乗せた彼女は、じぃっと僕の方を何も言わずに見つめてくる。その何か言いたげな目を、あえて見つめ返してみると、彼女は満足げに優しく笑った。


「愛していますよ。レドフィル様」


「……そういうのは酔ってない時に言ってほしいね」


 お酒で酔わせて無理やり言わせたとしか思えない愛の言葉に、僕はそっけない言葉を返した。


 そうしてしばらくの間、ご機嫌な鼻歌混じりに酔いの心地に浸っていたマーリネイト嬢だったが、次第にその鼻歌も小さくなり、折り畳んだ腕を枕代わりにしてテーブルに突っ伏してしまった。具合が悪くなった、というよりかはただ眠くなってきたように見える。


「ネイトさん、寝るならちゃんとベッドで寝ないとダメだよ」


「うーん……」


 声をかけても、僕の言葉の意味をちゃんと理解しているのか怪しい返事が返ってくるばかり。仕方がないな、と心の中で密かに呆れながら椅子から立ち上がった僕はマーリネイト嬢のそばに立ち、彼女の肩に手を置いてその華奢な体を小さく揺すった。懸命に彼女の意識を覚醒させようと試みたが、その努力が身を結ぶことはなかった。


 それどころか、マーリネイト嬢はすぅすぅと寝息を立て始めた。こうなってしまうと無理やり起こすわけにもいかなくなる。タミヤさんかマルタポー氏を呼んで、彼女をベッドまで運んでもらうか────。


「…………いや、まぁ、これくらいならいいか」


 マーリネイトお嬢様ともあろうお方が、異性の前で可愛らしい寝顔を晒すとは一体全体どういうことか。僕に対する信頼の表れとも捉えられるが、実際はただ彼女の無警戒を証明しているようにしか思えない。


 数多の男性を魅了してきた横顔にかかる黒髪をそっと指で払い、穏やかな寝息を立てて眠る彼女を眺める。こんな素敵な女性が僕に宛てて恋文を書いたとは、考えれば考えるほど作り話のようにしか思えてならない。初めて言葉を交わしたばかりに男に対し「結婚はどうする」などとふざけた質問を投げかけ、「家の鍵が開いていたから」という理由で勝手に家に忍び込み僕の目覚めを見守っていた女性が今、僕の眼下で眠っている。


 ────なぜそんなことをしようと思い立ったのかもよくわからない。愚かな結論に達してしまったと自分でも思う。しかし、全人類を納得させられるほど大層な根拠がそこになくとも、僕は、この役目だけは僕がやった方が良いという気がした。


 今日は酔いの回りがいつもより早いようだった。


 椅子に座るマーリネイト嬢の両膝の下に片腕を通し、もう片方の腕は背中のやや上あたりに添える。力を入れる必要もなく、彼女の体は軽々と持ち上がる。マーリネイト嬢が起きる気配は一切なく、僕の腕のゆりかごの中で眠っていた。


 彼女のベッドは、僕の家にあるものとはまるで格が違った。腕の良い家具職人に作らせたのであろうそのベッドは、寝返りに不自由することのなく、足を伸ばして快適に眠れるだけの広さと長さを持っていた。ただ眠るだけの場所としてではなく、最上級の安らぎを得るための空間として、そのベッドは部屋の中で強い存在感を放っていた。枕元には読みかけの書物がいくつか置かれ、彼女の寝る前の習慣を窺い知ることが出来た。


 この柔らかな布団に身を委ねたのなら、どれほどまでに心地よいのだろうか。そこで眠る気分は、どんなものだろうか────。ハッと息を大きく吸い込み、好奇心によく似た睡魔を頭を振って追い出す。


 マーリネイト嬢をベッドの上に優しく横たわらせたのだが、寝ぼけた様子の彼女が僕の首に腕を巻きつかせた。巻きついた腕にそのまま強く引かれ、僕の体もベッドに倒れ込む。結果としてマーリネイト嬢に覆いかぶさるような形となってしまい、すぐさま体をどかそうとするのだが、変わらず僕の首にある腕はそれを許してはくれない。むしろより近く、もっと近くへと僕の体をマーリネイト嬢の体へと導こうとしている。


「絶対起きてるよね。でないとこんなこと出来るはずないもの」


「…………」


 何も答えない。しかし、だからと言って「なんだ、ただ寝ぼけているだけか」で済ませるほど僕は鈍い男ではない。


「ネイトさん、僕は君のお父さんに信頼してもらってここにいるんだ。なのに君に手を出してしまえば、僕はマルタポーさんを裏切ってしまうことになる。『お酒のせいで』なんて言い訳も通用しないだろうね。……そうなると、僕が君と結婚するのはもっと難しくなってしまうよ、きっと」


「構いません。私の純潔はレドフィル様に捧げると決めているのですから」


 目をふんわりと開けたマーリネイト嬢が儚げに呟いた。彼女の左手が僕の頬にするりと添えられ、右手は僕の胸板の上をすぅっと舐めるように這った。彼女はこの行動の意味がわかっているのだろうか。いや。わかっているからこそだろうな。


 「美しい」と褒められただけで顔を真っ赤に染め上げる初心な女性でありながら、まるでそういった知識や経験とは縁遠い場所にいながら、どこでこんなことを覚えたのか。


「君がそう言っても、僕はこのまま流されるわけにはいかないんだ。君のお父さんとの信頼関係を守るために、それから、ネイトさんを守るために────」


「エミ様のことは、気になさらないのですね」


 マーリネイト嬢の口から飛び出た言葉に思わずギクリとして喋りが止まる。


「父との信頼関係や私のことを守りたいだなんて、今夜限りの嘘でしかありませんよね。本当はそれ以上に守りたいものが、大切にしたいものがレドフィル様にはあるのでしょう?」


「…………それが、どうしてエミのことだとわかるのかな?」


「その人以外に誰がいるのです? 私の目の前であれだけエミ様と仲睦まじげに話をしておきながら、よくもまぁ、そんな綺麗事ばかりを口に出来ますね。本当は私なんかよりエミ様とお付き合いしたいのではありませんか? 自分の目の前にいる女性がエミ様であったならと、これから体を重ねる相手がエミ様であったならと。心のどこかで考えていたりましませんか?」


 返す言葉がなかった。

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