「乾杯」

 マルタポー氏との会話を終えて部屋を出た後、マーリネイト嬢が突然目の前に姿を見せた。偶然とは思えない、僕が部屋から出てくるのを待ち伏せていたとしか思えないその邂逅に、僕は思わず半歩後ろに身をひいてぎょっとした目を彼女に向けた。そして僕が何か声をかける暇もなく、彼女は僕の腕に自分の腕を素早く強靭に絡みつかせると、


「私のお部屋はこちらです。ささっ、レドフィル様、早くどうぞこちらへ」


 部屋の片付けは無事に終わったらしい。マーリネイト嬢に体を引かれながら、僕は彼女の部屋へと案内された。


 その部屋には、花の香りが薄く漂っていた。鼻の中にいつまでも残り続ける、嗅覚を阻害する香りではなく、すぅっと息を吸い込んだ時に感じる心安らぐその香り。香でも焚いたのだろうか。


 人間一人が過ごすには少々空間の余りが多い気がするマーリネイト嬢の自室に最初の一歩を踏み入れて思ったのはそれだった。


 今晩を共にする円形の天板をしたテーブルには、二人分のカップとお茶菓子の乗せられたお皿が乗せられていた。酒にお茶菓子か……とお皿を見つめながら思わず表情に苦さが浮き出たが、空きっ腹に酒を流し込むよりはマシだろう。酒のつまみとして食われるお茶菓子の気持ちを僕は無視した。


 少量のお酒が注がれたカップをマーリネイト嬢は興味津々といった様子で見つめていた。ただしカップ自体は屋敷の中にあるものなので、彼女がそこまでまじまじと見つめる必要性を僕はちっとも感じない。そのせいか彼女の好奇に満ちた視線は「カップ」そのものではなく、その「カップにお酒が注がれている」という事実に対して向けられているような気がする。


 マーリネイト嬢はカップを両手で祈るように持ちながら、注がれたお酒の、透明度の高い樹液色の水面に鼻を近づけた。お酒の匂いを嗅ぎ、かくんと小首を傾げた。


「……変わった匂いがするんですね、このお酒。私はもっと。よく熟れた果実のような、甘い匂いを想像していたのですが」


「たまたまこのお酒がそういう匂いってだけで、匂いに関してはお酒の種類によるよ。ただ、僕もこのお酒の匂いを初めて嗅いだ時、ネイトさんと同じことを思ったかな。味も全然甘くないから期待しない方がいいよ」


 僕はテーブルの真ん中に置いたお酒の保存容器を手にしながら呟いた。これから僕たちが飲もうとしているお酒は、僕が初めて飲んだお酒である。名前は「ウィル・スキップ」。


 初めてお酒を飲んだ日の夜は、そりゃあもう酷い夜だった。


 今僕の目の前にいるマーリネイト嬢と同じかそれ以上に、当時の僕たちはお酒に対する好奇心に心も体も支配され、「ついにお酒が飲めるんだ」と異常なほど浮かれていた。先陣を切ってお酒を飲んだのは服屋の息子のクローファンだった。ちなみに彼は僕の友人の中で一番酒に弱い。ちょうど僕は彼の向かいの席に座っていて、彼が初めて飲んだお酒の味に対してどんな感想を述べるのかを心待ちにしていたのだが、その結果は思い出すだけで哀れな気持ちになるものとなった。


 クローファンの口から勢いよく噴き出された酒は、僕めがけて激しい濁流に匹敵する勢いを持って発射され、僕の衣服や肌、髪の毛に酒の香りを濃く残していった。今となっては仲間の間で長く語り継がれる最高の笑い話となっているものの、この酒を飲むたびにあの時の光景を思い出してしまう。


 もしやマーリネイト嬢もあの時と同じ悲劇を繰り返すのではあるまいな。僕はほんの少しだけ身構えた。


 おそるおそるカップに口をつけたマーリネイト嬢は、ほんの少しだけお酒を口に含んだ。舌の上でお酒をゆっくりと転がした後に、それを喉に流し込むと、けほけほと弱々しく咳き込んだ。口元に優しく握った拳を置きながら咳き込む姿は、病人のそれによく似ていた。


「すみません、その、急に喉に強い刺激がきたものですから。けほっ。なんというのでしょう、このキュッと絞まるような感覚。私はあまり得意ではありませんね……。でも、味はそこまで嫌いじゃありません」


「飲めなさそうならそのままにしておいて。無理して飲ませると僕怒られちゃうから」


「…………はい」


 マーリネイト嬢はもう一口だけお酒を喉に流し、また軽く咳き込んだ後その容器を僕の方に少し寄せた。


 カップの中に残っていた酒を、贅沢にも一気に飲み干し、喉と胃を通る独特の刺激を懐かしみながら味わった。後味を誤魔化すようにお皿に乗せられたお茶菓子を指でつまみ口の中へ放り込む。…………意外と合うではないか。


 一見すると自棄になっている風にも見えるお酒の飲み方を見て、なぜかマーリネイト嬢はきらきらとした視線を僕に向けた。「真似しちゃダメだよ」と念を押した上でカップを返し、もう一本のお酒の保存容器に手を伸ばした。保存容器の側面に書かれた酒の名前は「ロザリー」。


「そちらのお酒は?」


「こっちは僕が好きなお酒。さっきのと比べたら、こっちの方が飲みやすいと思うな。味は、好みが分かれるかもしれないけど」


「レドフィル様の、好きなお酒……。注いでください、最初はほんの少しだけ」


 手に持ったカップを少し傾けて僕の方に差し出し、僕がお酒を注ぐのを受け入れる態勢を整えたマーリネイト嬢。僕は差し出されたカップの中に注ぎすぎないよう注意深くお酒を注いでいく。淡い赤色をした液体がカップの中に優しくとくとくと流れ込んでいき、甘酸っぱい果実の香りをほのかに漂わせ始めた。


「良い香りですね。私、この香り、好きです」


「気に入ってくれたのならよかった。……よし、こんなもんかな。はい、ゆっくり飲むんだよ」


「ありがとうございます。では、いただきます」


 カップを受け取ったマーリネイト嬢は、香りをまた少し嗅いだ後お酒を口の中に含んだ。こくんとお酒を飲み込んだ後、何か感想を述べることもなくまた一口お酒を飲み、カップをテーブルの上に置いた。カップの中は空っぽだった。


「どう?」


 さりげなく感想を聞こうとした声が、僕の耳にはやけに不安げに聞こえた。


「とても、美味しいです。先ほど飲んだものよりもずっと飲みやすくて、程よい甘味と渋味がとても心地よく、ついつい飲み切ってしまいました。もう少しだけ、いただけますか?」


 僕は安堵の気持ちで胸をいっぱいにしながら、マーリネイト嬢のカップにまたお酒を少しずつ注いだ。


 このロザリーというお酒、実はあまり評判が良くない。「自分が好きだから」という理由で買ったはいいものの、マーリネイト嬢の舌に合うかはどうしても不安だったのだ。


 よく言われるのは「味がはっきりしていない」とか「何を思ってこの酒を作ろうとしたのかがまるでわからない」といった厳しい意見ばかりで、この町の中でもロザリーを好んで飲むのは僕一人くらいだ。エミもたまに一緒に飲んではくれるけど、好きなお酒というわけではないらしい。ロザリー、別名「どっちつかずの酒」。そんな酒を僕が好んで飲んでいるとは、皮肉なものだ。


 そして自分のカップにはウィル・スキップを注いだ。その最中にちらりと見たマーリネイト嬢の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。マルタポー氏の予想通り、彼女もあまりお酒には強くないかもしれないな────。

 

「そういえば」


 カップに口をつけようとしていたマーリネイト嬢がなんの前触れもなく呟いた。


「お酒を飲む前には、お決まりの挨拶があるのですよね。とっても大事なことでしたのに、うっかり忘れていました」


「あいさつ……?」


「ほら、あの、カップ同士のふちを軽くぶつけ合って────」


「あぁ、なるほど、あれか」


 マーリネイト嬢の発言の意図を理解した僕は、自分のカップを手に持って少し前の方へ差し出した。彼女も僕に倣ってカップを前の方に出した。


「乾杯」


 こつん、と、ぶつかったカップ同士の軽く弾むような音が鳴った。


「レドフィル様。私、今とっても幸せです」


 マーリネイト嬢から色気のある微笑みを向けられ、かすかに胸の高鳴りを覚えた。

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