第三章
お酒を飲む前に
エミに頭を思い切り叩かれた時の衝撃は、次の次の夕暮れ時を迎えてもなお僕の頭に色濃く鈍い痛みを残していった。「ひりひり」というよりも「じんじん」とわずかな熱を帯びて痛む頭頂部を気遣いながら過ごす毎日は決して良いものではなかった。
たかが二、三回お尻を触っ────揉んだくらいで僕はここまでの仕打ちを受けなければならなかったのだろうか。殴られてすぐはそうやって自分がまるで被害者かのような意識で先の体験を振り返っていたものの、少し日が経てば考え方もがらりと変わった。いくら親しい仲とはいえ、やっていいこととダメなことがある。
ましてや「僕のことが好きなんだから、これくらい許してくれるだろう」という自惚れた気持ちで女性に手を出すなんて、紳士として恥ずべき行為だ。
あの日の夜に起こった出来事について僕は深く反省し、女性と接する際の距離感について見直すことにした。エミやマーリネイト嬢との付き合い方には今後より一層理性的で慎重に接していかなければならない────。
その日の夕暮れ時は曇り気味だった。太陽は西の空に浮かぶ雲の向こうに姿を隠し、時折生まれた雲と雲の隙間から顔を出す程度だった。雨が降る気配はまだ感じなかったが、時間の問題だろう。遅くとも深夜には雨が降り出しそうではある。僕が家に帰る頃に雨が降らなければいいのだが。
そんな曇り空の下を、僕は先日酒場で買ったお酒を手にマーリネイト嬢の待つ屋敷へ向かった。今日がマーリネイト嬢と一緒にお酒を飲むと約束したその日である。
ようやく辿り着いたマーリネイト嬢の屋敷の門の前には、二人分の人影が見えた。一人はマーリネイト嬢のものだとすぐにわかり、その次に、彼女の横に立っているのがタミヤさんだと気づいた。遠目に見てもわかるほど、マーリネイト嬢の様子は「今か今か」と僕の到着を待ち侘びており、その様子をタミヤしはじっと見守っていた。
そんな二人の姿を見て僕が「おぉい」を声をかけるよりも早くに、マーリネイト嬢が僕の姿に気づいた。
「レドフィル様!」
呼び止めるタミヤさんの声は聞こえないふりをして、彼女は走った。よくもまぁそんなに走りにくそうな服で僕の所まで駆け寄ってくるものだ。
曇り空の下であっても彼女の笑顔は眩しく輝いていた。自分を見つけただけであんなにも幸せそうに笑ってくれて、嫌な気持ちになる人間はこの世のどこにいるというのか。
僕の胸元に飛び込んできたマーリネイト嬢を優しく受け止めてやると、彼女はすぐさま僕の腰に腕を回し、恥ずかしげもなく柔らかな女性的な肉体を僕に押し当ててくる。やはり彼女の体を抱きしめることは憚られた。女性との接し方を見直した云々よりも、僕にはそんなことが出来るはずがなかった。
「ずっとお待ちしておりました。私ったらもう朝からずっと楽しみで楽しみで、何をしても手につかないくらいそわそわとしてしまって────」
「そりゃあ嬉しいね。そう見えないかもしれないけど、僕も楽しみにしてたんだ。ネイトさんとお酒が飲めるのをね」
マーリネイト嬢の視線が、僕の手に握られているお酒の保存容器に移った。
「そちらが、今日飲むお酒ですか?」
「そうだよ。僕が好きなお酒と、僕が初めて飲んだお酒を買ってきたんだ」
「……今、少しだけ匂いを嗅いでみても?」
「それは後でのお楽しみ」
マーリネイト嬢はお預けを食らってむっとした。
一瞬生まれた会話の空白を埋めるように、追いついたタミヤさんが口を開いた。
「お二人とも、雨が降り始めないうちに屋敷の中へお入りください。雨に濡れてしまっては、楽しい夜も台無しになってしまいますよ」
タミヤさんの発言を素直に受け止めたマーリネイト嬢は、僕の体に巻き付けていた腕をするりとほどいた。そしてほんの少しだけ、雲行きの怪しくなり始めた薄暗い空を見上げた後、「では私は先にお部屋で準備をしておきます」とだけ言って、僕とタミヤさんを残して足速に屋敷の方へ戻ってしまった。その背中を追いかけようと一歩を踏み出したところで、タミヤさんに「レドフィル様」と呼び止められた。
「先ほど、マルタポー様から伝言をいただきました。『お酒を飲む前に改めて話しておきたいことがある』と。屋敷の方に入られましたら、まず先にマルタポー様の所へ」
「あぁ、なんとなくそんな気はしてました。教えてくれてありがとうございます」
「それから、お嬢様のお部屋にはまだ近づかない方がよろしいかと」
タミヤさんの口から出た不思議な発言に、僕は首を傾げた。
「どうしてでしょうか」
「私の口からは詳しい事情をお伝えすることは出来ませんが、これくらいならば大丈夫でしょう。マーリネイトお嬢様は、あまりお片付けが得意な方ではありませんゆえ、もう少しだけそっとしておいてあげてください。朝からずっと、私の手も借りずに頑張っていたので……」
「あっ、はい。わかりました」
なぜマーリネイト嬢の部屋にまだ近づいてはいけないのか。その理由の全てが、今タミヤさんの口から語られたその言葉に込められていた。
マルタポー氏は自室で僕を待っていた。「やぁ」と気さくに出迎えてくれたはものの、何気ない仕草や表情の移ろいの中にうっすらと漂う、緊張と迷いの気配を僕は感じ取った。
「今夜はネイトのことをよろしく頼むよ。本当なら私もその場にお邪魔したかったのだが、あの子がどうしても君と二人きりがいいと駄々をこねるものだからね……」
「またわがままを言われましたか」
「いやはや、あの子には敵わないな全く……」
先日マルタポー氏に今夜の件について説得を試みた際、マーリネイト嬢の力がなければ彼の同意は得られなかっただろう。彼女は僕が説得に難儀していたところに颯爽と現れ、マルタポー氏に「わがまま」を言った。あの時の彼女の表情はとてもにこやかなものであったが、その微笑みの裏に潜む、強く体を押されるような迫力を鮮明に覚えている。
マルタポー氏がマーリネイト嬢に甘いのはなんとなく気づいていた。そうでなければ僕がここにいられるはずがない。しかし実際のところ父が娘に弱いだけなのか、それとも娘が強すぎるのか。
「さて、レドフィル君。君をネイトの部屋に向かわせる前に、この前教えた条件についてもう一度確認しておこうか。君がこの約束事を軽々しく破るような男だとは思っていないけど、もしものことがあるからね」
「ネイトさんにお酒を飲ませすぎないこと。婚前交渉は絶対にしないこと。この二つでしたね」
「その通りだ。ネイトには今までお酒を一滴も飲ませたことがないから、彼女がお酒に強いのか弱いのか私にも全くわからない。でも、彼女の母親はちっともお酒が飲めない人だったから、シアによく似ているネイトも、お酒に弱い可能性が高い。判断はレドフィル君一人に任せてしまうことになるが、ネイトの具合をよく見ながら、飲ませすぎないよう気をつけてくれ」
「もちろんです」
「それから、君たちは年頃の男女だ。酔いの勢いに任せてちょっとした間違いを起こしてしまうかもしれない。私は一番恐れているのはそっちの方だな。絶対に何があっても娘に手を出してはいかんぞレドフィル君。……本当に頼むよ?」
鋭く刺すような視線を僕に向けたものの、僕の心臓を貫く前にその視線は切れ味を失った。やはりマルタポー氏は人が良すぎる。その優しさにつけこむことは実に容易に思えるが、僕はそんな非情な人間ではない。受け取った信頼には相応の態度と行動で返そう。
僕は絶対にマーリネイト嬢には手を出さない。
その硬い決意を示すために、僕は静かに力強く頷いた。
「もし何かあったらタミヤか私に遠慮なく声をかけてくれ。……それじゃあ、良い夜を」
「えぇ、楽しんできます」
軽く手を上げてマルタポー氏の見送りに答えると、酒の入った保存容器の中でちゃぷんと酒の揺れる音がした。
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