極上モン

 ひゅうと吹いた夜の風はやけに冷たかった。家を出て扉の鍵をしっかりと閉めたばかりなのに、風に一回頬を触られただけで、すぐにでも家に戻って温かな布団の中で眠ってしまいたい気持ちにさせられた。しかし、どうしても今夜のうちに済ましておきたい用事があるため、自分の体を抱くように身を縮めて、暗がりの中へ一歩を踏み出した。


 なぜこんな寒い思いをしてまで夜に出かけなければいけないのか。酒場に用事があるからだ。ではその用事とは一体何なのか。お酒を買うのである。飲むのではなく、買うのだ。


 事の発端はマーリネイト嬢の「お酒を飲んでみたい」というあの発言である。彼女はお酒を飲んでも問題ないという年齢に達してはいるものの、父親であるマルタポー氏が飲酒を許してくれない。その判断は決して間違いではなく、大事な娘を持つ父親として限りなく模範解答に近い対応とも捉えられる。


 しかしその抑圧の反動か、マーリネイト嬢のお酒に対する好奇心は簡単に抑えられそうになかった。それに、僕としてもお酒の味や「お酒に酔う」という感覚は、なるべく早いうちから経験しておくべきだと自分なりに考えている。


 そんなわけで、「ネイトさんとお酒が飲んでみたい」とマルタポー氏に説得を試みた結果、いくつかの条件を出されたものの、マーリネイト嬢の飲酒がついに許可がされたのである。僕がお酒を買いに行くのにはそういう経緯があった。


 月の傾き具合からして、既に酒場の営業はほとんど終わっているはずだ。、店でぐぅすか寝ている酔っ払いの後始末や酔っ払いどもが散らかしていった店の片付けもほとんど終わり、従業員のほとんどが仕事を終えて家に帰っている。まだ酒場に人の気配が残っているようであれば、それは彼女以外考えられない。


 案の定、酒場の窓からは明かりが漏れており、寝静まった夜の街に光と影を生み落としていた。その酒場の窓から屋内をこっそりと覗くと、まだ店の掃除をしている途中のエミを見つけた。


 ひとりで黙々と仕事をしている様子から、店の中には彼女しかいないようだった。お酒を買うだけなら別にこんな夜更けまで待つ必要はなかった。エミと二人きりで話せる時間を作りたい、と心のどこかで考えていたからこそ僕はこんな時間に家を出ることにしたのかもしれない。彼女の性格や仕事ぶりから考えて、エミならばこんな夜遅くになってもまだ仕事をしているだろうと。僕がとった行動は、ある面では「賢い」とも言えるが、もう一方では「卑怯」とも言える。


 窓の外から人の気配を感じたのか、エミがこちらを向いて僕と目が合った。「早く家に帰れ」と促すのかと思えば、困ったような笑みを浮かべて僕を手招いた。彼女の優しさに漬け込んだような気がして、ますます僕は卑怯者に近づいた。


「今日はもうお店やってないんだけど、どうかした?」


 掃除の手を止めることなくエミは僕に尋ねた。


「お酒を買いたいんだ。僕がいつも飲んでるやつと、あとは、僕たちが初めて飲んだお酒。ある?」


「……ちょっと待ってて。倉庫から探してくる」


 エミはそれだけ言い残して、店の奥へと引っ込んでいった。


 一人用の椅子に腰掛けてしばらく待っていると、エミが酒の入った陶器製の保存容器を二本手に持って小走りで戻ってきた。どちらも封を開けた形跡はなく新品そのもの。味の仕上がりは飲んでみないとわからないが、特に問題はないだろう。この二つの酒はどちらも安定して美味しいのだ。はずれくじを引く方がずっと難しい。


 エミはその二本を僕の目の前にあるカウンター席に置いた後、僕の隣の椅子に腰掛けた


「レドフィルがお酒を買うなんて、変なことも起こるもんだね」


「……そうかな。別にそんなことないと思うけど。僕だってお酒は飲む時は飲むし、お酒が嫌いってわけじゃないんだけどな」


「飲める飲めないは別の話。私が言いたいのは、あのレドフィルがお酒を買ったのが変ってこと。だって、ずっと前から自分で言ってたじゃん。『僕は家ではお酒は飲まないようにしてるんだ』って。なのにいきなり店に来たと思ったら『お酒を買いたい』なんて言い出すんだよ? 不思議に思って当然じゃない」


 台の上に置いた陶器の片方をゆらゆらと揺らしながらエミは呟いた。その呟き方には若干不満のような気持ちも込められていたような気もする。


 エミの言った通り、僕は家では絶対にお酒を飲まない。それは周りにも公言している紛れもない事実であり、それが真実であるかを確かめるために僕の家中をひっくり返してみたところで酒の容器は絶対に見つからない。それだけ僕は徹底して自宅では酒を飲まないよう気をつけている。


 そんな僕が「お酒を買いたい」と言い出したら、エミだけでなく僕の友人たち全員が彼女と同じような、驚きと戸惑いの入り混じった反応を見せるだろう。


「僕一人で飲むわけじゃないよ、このお酒」


「あっそうなの? ってことはじゃあ、誰かと一緒に────あぁ、なるほど」


「わかった?」


「マーリネイトお嬢様でしょ」


「正解。今度一緒にお酒を飲もうって約束したんだ」


 僕がお酒を買った理由に辿り着いたエミはあくびの混じった声で「なぁるほどねぇ」と言った。体の凝りをほぐすように彼女は大きく体を後ろに反らした。その際に強調された胸元から僕はさっと視線を外し、一回だけちらりと横目に見るだけにとどめた。


 働き者の彼女でも眠気には抗えない。目的の品は買えたことだし、これ以上彼女の仕事と安眠の邪魔にならないようすぐにでも帰るとしようか。懐から酒の代金を出し、それをエミに手渡す。通貨の入った袋の中身をエミが確認している間に、僕は酒を手に取って椅子から立ち上がる。


「ちょっと待った」


 エミがわずかな怒気を込めた声で僕を呼び止めた。


「お金足りないんだけど。ほんの少しだけ」


「えっ、嘘。値段ちょうどの代金を数えて持ってきたはずなんだけど」


「この前品薄でほんのちょっとだけ値上げしたんだよね。多分そのせい」


「えぇぇ……値上げしたなんて聞いてないよ……」


「うちの常連ならみんな知ってるけど、レドフィルは頻繁にお酒飲まないもんね」


 がくりと肩を落とす。足りない分のお金を取りに、お酒の容器を店に残して一旦家に戻るべきか。いやしかしそうするとエミを待たせてしまうことになる。酒場から家まではそんなに距離はないが、こんな夜遅くにエミを一人で待たすわけにはいかない。また明日出直すとしよう……。


 手に持っていた酒をエミに返して、その代わりにお金の入った袋を受け取ろうとしたのだが、エミはなぜかその袋を自分の体の後ろの方へ隠した。


 なぜそんなことをするのか。黙ったまま困惑した表情を浮かべた僕を見て、エミは「にへへ」と声を出して悪戯っぽく笑った。


「どういうつもりかな、エミ」


「眠気覚ましにちょっと運動でも、と思ってね」


 僕が彼女の後ろに回って袋を取り返そうとすると、彼女も僕の動きに合わせて体の向きを変える。一瞬の隙を突いて素早く袋を奪い取ろうとしても、エミもなかなか察しが良く、すぐに気づかれて袋を奪われまいと守る。片づけられた酒場の店内をぐるぐると広く回りながら、お金の入った袋を巡って僕らは追いかけっこをした。


 もう僕らは子どもじゃないのに。今の自分達の様子を第三者の視点で傍観しながら、心の中で冷めた感想を述べてみるのだが、実のところこの状況を僕は無邪気に楽しんでいた。こんな風に、場所や時間を選ばずただただ追いかけっこをしていた子どものことを思い出しながら、エミが持っている袋を必死に追いかけていた。


 そして、お互いが健闘の果てに息を切らし始めた頃、僕は素早く一歩を踏み出し、エミの方に一気に近寄った。そしてエミが自分の体で隠すようにしながら手に持っている袋めがけてごく最小限の動きで手を伸ばす。


「獲った!」


 手のひらが握る確かな感触。しかしそれは通貨の硬い感触ではなかった。お金の入った袋を取り返したものだとばかり思っていたのだが、現実はどうも違うらしい。顔を上げると、高々と腕を挙げたエミの手のひらには僕の手の中にあるはずの袋が静かに握られていた。


 では僕は一体何を獲ったのか。自分が手にした物の正体を確かめるように慎重に指を折り曲げ、手のひら一杯にある感触を味わう。柔らかい。そして温かい。この世のありとあらゆるものを優しく包み込んでしまえそうな包容力に満ちた何か。


 僕を見下ろしているエミの顔がかぁっと真っ赤になった。その表情には徐々に焦りと羞恥と怒りが混ざり合っていった。するりと指の隙間から抜け出した袋はそのまま落下し、酒場の床にがちゃんと音を鳴らして着地した。


 そして最後にもう一度だけ、僕はそれを揉んだ。自分が手にしているものの正体にはとっくに気づいている。


 ────なるほど。たしかに、極上モンだな。


 僕の頭頂部めがけて振り下ろされた衝撃は、落雷のそれに似ていた。

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