父の言葉
「あぁそうだ」と不意に何か大事なことを思い出した風の言葉を口にしながら、マルタポー氏は手をパンと叩いた。そこまで大きな音ではなかったが、部屋にいきなり響いたその破裂音に僕の肩はびくりと跳ね上がる。
マルタポー氏が何を思い出したのかは僕の知るところではないが、今に鈴でも鳴らしてタミヤさんでも呼ぶのだろう。お茶を啜りながらそんなことを考えていたのだが、そうでもないらしい。鈴は依然としてテーブルの隅に置かれたままで、マルタポー氏がそれを手に取り鳴らす気配はない。
それではいったい何を思い出したのかと思えば、今度は僕に向かって右手を差し出してきた。それが僕に握手を求めている合図なのだとはすぐに理解したが、その動機がわからない。なぜ今になって僕に握手を求めるのか。
「これからよろしく」と伝えるための挨拶? それは屋敷の前で既に済ませたはずだ。それではもっと別の理由が? その別の理由とやらがわからない。もしかしてこれは握手ではなく、もっと別の意味を持った合図なのか?
カップのふちに唇をつけたまま、じっとマルタポー氏の太くて丸い指先を僕は見つめていた。
「ネイトが、結婚相手は君がいいと昨晩教えてくれてね。あの子がレドフィル君に好意を持っているのは当然知っていたんだけど、いざ結婚の話が出ると色々と考えるところがあってね。昨日の夜からずっと考えてたんだけど、君と直接話してようやく結論が出せた」
決意を固めたマルタポー氏の瞳がきらんと光った、ような気がした。
「私は二人の結婚、応援してるよ。レドフィル君ならうちの娘を安心して任せられるし、私のちょっとした老後の楽しみにも一緒になって付き合ってくれそうだからさ」
「は?」
今度は僕の間抜けな声が部屋に響いた。カップをお茶を溢しはしなかったが、カップの中のお茶の震え具合を見れば僕の動揺の具合はすぐにわかる。川の中へ次々と砂利を流し込んだ時の水面のように、カップの中のお茶は激しく揺れる。これは人間がしていい体の震えなのか? 病気か何かを疑った方が良いのではないだろうか。
僕のこの反応はマルタポー氏からしても予想外、むしろ欠片も考えてもいなかった反応だった。それもそのはずだ。町中の男たちの視線と人気を独り占めしているような自分の自慢の娘との結婚を断る人間がいるとは、とても想像しないだろう。誰もがすぐに首を縦に振って感謝の言葉を述べるなり、固い握手を交わすなり、結婚に対して前向きな反応を見せるはずだ。そう頭の中で結論づけていたからこそ、僕のこの焦り方はマルタポー氏の予想の範疇を大きく超えた。
「ちょ、ちょっとレドフィル君。大丈夫かね。そんなに慌ててどうしたんだ」
「あぁ、いや、えっと、その……」
なんとかこの場を乗り切るために何か喋らなければと必死に頭を回すのだが、「憧れのお嬢様との結婚を、彼女の父親が応援している」という状況も僕の予想を遥かに超えるのものだった。ただの貧乏な農家の僕に、自分の娘を任せられると本気でこの人は考えているのか。正気を疑うつもりはないが、もう少しちゃんと考えてっみた方が良いと思う。
第一、誰も彼も僕のことを買い被りすぎだ。町の人にしろ、エミにしろ、マーリネイト嬢にしろ、マルタポー氏にしろ。僕は野菜を作ってうるくらいのことしかできないただの農家なのに。おまけに人に誇れるような財産も知識もない。そんな僕が結婚だなんて────。
「……もしかして、ネイトと結婚するのが嫌なのかい?」
「いや! そういうんじゃないです! ただ、その……自信がないと言いますか……。ほら、僕は別にお金持ちってわけでもないし、特別な才能に恵まれた人間でもない。人を好きになるって感覚もよくわからないし、そんな僕が結婚なんて……って考えると、やっぱり、ネイトさんには僕よりも素敵な人がいるんじゃないかなって……」
人の前で弱気な発言や態度をとるのは控えようと誓ったばかりなのに、悲観的で後ろ向きな言葉だけがつらつらと僕の口から飛び出してくる。それに伴って僕の気持ちはどんどんと暗く湿った方へと沈んでいく。こんな気分に陥っている場合ではないことはわかっている。せっかく僕を部屋に招いてくれて、結婚についても応援してくれているマルタポー氏に失礼だ。それでも、頭ではわかっていてもどうしようもない時はあるものだろうに。
いっそのこと「なんだその弱気な態度は」と怒鳴ってくれた方がマシなのだが、お人好しのマルタポー氏にそんなことを期待するのは少し的外れというものだった。
「まぁまぁレドフィル君。私だって君の気持ちがちっともわからないわけじゃないぞ。むしろ今の君の考え方は、昔の自分を見ているようでなんだか懐かしい気分になる。もちろん当時の私と今の君がまるで同じことを考えているなんてことは絶対にないだろうな。君なりに考えていることはたくさんあるだろうし、私が自分勝手にあれこれ助言をしたところで、それがかえってレドフィル君を苦しめることになりかねないからなぁ」
うーんと唸りながらマルタポー氏は腕を組んだ。その表情はわかりやすく悩ましげで、彼の人柄もよく滲み出ていた。困っている人間を放って置けず、自分に何か出来ることはないかと必死に世話を焼く立派な姿勢。その行いは偽善といえば偽善かもしれないが、だからと言って僕にはマルタポー氏を「偽善者だ」と嘲笑うなんて真似は到底できない。手を差し伸べられて初めて感じるものというのがある。
また、その優しさに触れて少し余裕ができたのか、僕は『マーリネイト嬢との結婚』についてあれこれと考えを巡らせた。僕たちが結婚するにあたり一番障害物となりうるのはやはり身分の差だろうか。身分の差から生じる価値観の違いも今後の生活においては問題ごとの火種にもなりそうだ。おまけに、財産的な面に関しても不安は色々とあるし、それから────。
────エミ。
「エミ?」
酒場の看板娘の顔を思い描きながら心の中で呟いたつもりだったその名前は、どうやら実際に声となりマルタポー氏の耳にまで届いていた。その名を聞いてマルタポー氏は何を思ったか、腕を組んだままなんとも例え難い微妙な表情で斜め上の方を見ていた。しばらくそうしていた後、うんうんと繰り返し頷きながら「そうかそうか」と静かに呟いて、マルタポー氏は正面を向いた。向いた先には当然僕がいる。
「よしわかった。それじゃあ私からはある『言葉』をレドフィル君に言っておこう。困った時や迷った時には、ぜひ思い出してほしい」
自信に満ち満ちた表情で、マルタポー氏はそう話を切り出した。
『たくさん考えなさい。考え抜いた後に、どんなに小さくてもいいから自信を持って一歩を踏み出してみなさい。踏み出した先で何が起こっても、それは間違いや失敗ではないから』
マルタポー氏の言葉には重みがあった。世界のどこかにいた偉人の言葉を丸暗記して口にしたのとはまるで違う。言葉の中にマルタポー氏の経験と知識がまるごと乗せられているような、そういう重さが込められていた。
「どこかの誰かが遺した言葉ですか? それは」
「いや? 自分で今さっき思いついたものだよ。ちゃんと言葉にしてみたのは初めてだけど、私がいつも大事にしている考え方なんだ。隠れた意味とかはなくて、言葉通りの意味しかないよ。自分でちゃんと考えること。どんなに小さくても一歩を踏み出すこと。その大切さを、私は今までの人生の中で痛いくらい感じてきたからね」
「……すごく胸に響きました。その言葉、絶対に忘れません」
僕の返事を聞いたマルタポー氏はニコリと笑った。見るだけで心穏やかになる笑顔というのを僕はこの時初めて見た。これも「魔法」とやらの一種なのか?
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