懐かしい人
しゃららんと鳴った涼しげな鈴の音は、微睡んでいた意識を覚醒させるのに丁度良かった。どうして僕がまだ明るいうちからうとうととしていたのか。その理由はハッキリしている。ただの睡眠不足だ。決して今僕が相対している人間の話がつまらないからだとか、僕が聞いても仕方がないような昔話に付き合わされていたとかそういうのではない。断じてない。
マルタポー氏が鳴らした鈴は、マーリネイト嬢が持っていた物よりも小さく見えた。それがただの気のせい、マルタポー氏の手が大きいせいで鈴が小さく見えただけだったと気づくのには少々時間がかかった。
鈴が役目を終えてテーブルの隅に置かれるよりも早くに、執事のタミヤさんがマルタポー氏と僕のいる部屋にやってきた。 タミヤさんに「喉が渇いたからお茶を淹れてくれ」と注文をして、マルタポー氏はまた僕と向き合った。喉の渇き具合を気にしてみれば、たしかにかれこれ長い間、マルタポー氏と二人きりで話をしている気がする。
この屋敷で執事として働くタミヤさんは特殊な訓練によってこの鈴の音を屋敷のどこにいても聞き分けられるというのだから実に奇妙だ。いったいなにがどうなっているのか、特殊な訓練ではどんなことをするのか。僕はただただ空想を再現なく広げながら首を大きく傾げるばかりだった。
「それ、不思議ですよね」
「ん? あぁ、この鈴のことかな?」
僕が何に対して「不思議」と述べたのかをすぐに察したマルタポー氏は、テーブルの隅に置いた鈴をまた手に取った。見れば見るほど、その鈴自体が何か特別なものであるとは思えない。やはりマーリネイト嬢が会話の中で軽く触れた『特殊な訓練』とやらの影響なのだろう。
「まぁ、実は私も詳しい仕組みはよく理解していないんだ。一応説明は受けたことがあるんだけど、私にはちょっと難しい話ばかりだったからね。この鈴の仕組みについて細かいことを知っているのはタミヤとネイトと……それからシアくらいだろうね」
「……シア?」
聞き覚えのない人物名に僕はその名を疑わしげに呟いた。
「ん? あぁすまない、妻のことだよ。名前はマディシア、シアっていうのは『あだ名』みたいなものさ────」
マルタポー氏の妻で、マーリネイト嬢の母親にあたるマディシアという女性が既に亡くなっているということは、昨日のサヒレス園でのお茶会でマーリネイト嬢から聞かされていた。流行り病が原因だったらしい。
その時に、マーリネイト嬢は幼い頃の母親との印象的な思い出があるとも教えてくれた。幼い頃の記憶はどれもが朧げではあるものの、その思い出だけは月日が流れた今でも色褪せることなく彼女の記憶の中に留まり続けているとのことだった。しかし、マーリネイト嬢はその思い出話を語るのを渋った。
「あまりこの話をしたくはないのです。なんというか、小さい頃の私を知られてしまうのが恥ずかしくて……。特にレドフィル様には」
もじもじと恥ずかしそうにするマーリネイト嬢に、僕は「そこまで話したんだから」としつこく迫った。僕の説得に負けたマーリネイト嬢は、可愛らしく頬を小さく膨らませて可愛く不満を訴えた後、「笑わないでくださいよ?」と念を押した。当然僕は頷いた。
幼少期のマーリネイト嬢はかなり活発な女の子だったらしい。屋敷の中でじっとしているよりも、庭に出て駆け回っている方が性に合っていとのことだが、今の雰囲気からはまるで想像できない。
そんなマーリネイト嬢はある日、当時住んでいた屋敷の庭で遊んでいる途中、何かにつまずいて転んでしまい、肘や膝を擦りむくなどの怪我をしてしまった。大きな怪我ではなかったものの、その痛みは子どもの身には堪えきれないものだった。溢れ出る涙をこらえることができずに、マーリネイト嬢は大きな声を上げて泣き始めた。
我が子の泣き声を聞いて颯爽と現れたマディシア氏は、泣きじゃくるマーリネイト嬢をあやし、ほんの少しだけ落ち着いた娘に優しく語りかけた。
「ネイト、お母さんが来たからもう大丈夫。こんな怪我すぐに治してあげるから」
マディシア氏は娘の膝にできた擦り傷に手をかざした。そのまま娘の目をじっと見つめながら、ある「おまじない」を唱えたのだという。
「痛いの痛いの、飛んでいけー!」
おまじないの言葉を唱えた後、パッとかざしていた手を傷の上から外した。土と血で汚れた痛々しい擦り傷は再びマーリネイト嬢の目の前に姿を現した。しかしいったいどうしたことか、先ほどまでは泣くほど痛かったはずなのに、今ではちっとも痛くない。そのまま走り出して行けるのではないかと、当時のマーリネイト嬢は錯覚した。
もちろん走り出そうとしてすぐにマディシア氏に止められ、その後タミヤさんからしかるべき応急処置を受けたのであった。
微笑ましい思い出話を聞かされた僕は顔をほころばせた。もちろんその笑みに、幼少のマーリネイト嬢を嘲笑する気持ちは含まれていない────。
「シアは本当に不思議な女性だったよ。なんたって『魔法』が使えるんだから。私が同じことをやっても何も起こらないのに、シアがやると必ず何かが起こるんだ。怪我をしても痛みがぱっと消えたり、料理が美味しくなったり、勇気が湧いてきたり────。あぁ、どれもこれも懐かしい思い出ばかりだ」
不思議な女性。その女性の夫と娘が口を揃えて言うのだからその評価に間違いはないだろう。そして話を聞けば聞くほど「一度でもいいから会ってみたい」という絶対に叶わない夢が膨らみ続けていくのが、かえって『永遠の別れ』という出来事への悲哀を一層強く感じさせる。
もう少しだけマディシアという女性について知ってみたい。その一心でもう少しだけマディシア氏に関する話をマルタポー氏から聞いてみようとした時、ちょうどタミヤさんがお茶とお茶菓子を持って部屋に戻ってきた。開きかけた口は閉じなおし、喉元まで迫っていた言葉はぐっと胃の底へ押し込む。
白い湯気と共に上るお茶の香りは、昨日嗅いだそれとはまだ別の香ばしいものだった。
カップを口元まで運んだマルタポー氏が、このお茶の香りを嗅いで「ん?」と首を傾げた。その匂いを確かめるようにすんすんと鼻を鳴らし、白い湯気を吸い込むマルタポー氏だったが、タミヤさんと僕はその様子をじっと見つめていた。
「何か、おかしな匂いでもしましたでしょうか。もし気分を害されたのなら、すぐにでもお茶を淹れなおしますが」
「……いや、随分懐かしい匂いだなと思ってね」
「懐かしい匂い、ですか」
そう聞いた僕も同じようにお茶の香りを嗅いでみるも、特別懐旧の念をくすぐられるようなことはなかった。普通の、美味しそうなお茶の匂いとしか感じない。
「ちょうどレドフィル君とマディシアのことを喋ってたんだ。そしたら、そこへ丁度タミヤがお茶を持ってきたわけなんだが、そのお茶の香りがマディシアが好きだったものと一緒だったからね。小さな偶然に驚いてしまったよ。もしかしてタミヤ、私たちの話をこっそり部屋の外から聞いていたのかな?」
「いえ、そんなことは決して! 本当に偶然です。でも、このお茶を淹れながらマディシア様のことを思い出したのはたしかです。そして、この香りでマルタポー様もマディシア様のことを思い出したりするのだろうか、と一人で考えていたので────」
「おいおい、この私が思い出さないわけないだろう。あんなにマディシアのことを愛していた私がだぞ? それに、お茶だけじゃなくて、このお茶菓子だってそうじゃないか。これもマディシアがおかわりを要求するくらいに好きだったやつで────」
僕を置いてけぼりにしてまた思い出話に鼻を咲かせ始めたマルタポー氏とタミヤさんの様子を見ながら、僕はようやくお茶を一口啜った。昨日飲んだお茶とはまた違う味だった。クセの少ない味と香り。最初の一口目から「美味しい」とちゃんと感じられる。お手頃な価格で手に入るのなら、僕も日常的にこのお茶を飲んでもいいかもしれない。お茶の淹れ方は全く知らないので、タミヤさんか他に詳しい人に教えてもらう必要はありそうだが。
マルタポー氏の妻で、マーリネイト嬢の母親。魔法が使えるという不思議な女性マディシア。彼女について知ってみたいことは山ほどある。だが、マディシアさんはこのお茶が好きだった。今はそれが知れただけでも良しとしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます