娘想いの父親
野菜のほとんどを売り終え、マーリネイト嬢を屋敷にまで送り届けようとそっちの方面へ歩き続け、彼女の屋敷の屋根が見え始めた頃。屋敷の門の前に、やけにまんまるとした何かが立っているのを見つけた。
そのまんまるとした何かの正体は、不安げな顔をしながら辺りをきょろきょろと見渡しているマルタポー氏だった。なぜ彼があんなにも不安そうな顔をしているのかは、本人から直接理由を訊くまでもない。
人の気配か、それとも荷車の音か何かで僕達の接近に気づいたマルタポー氏は、たぽんたぽんと腹の肉を揺らしながらこちらに駆け寄ってきた。
「ネイトォォォォ! 無事かぁぁぁぁ!」
町中に聞こえていそうな声量で叫ぶマルタポー氏の姿を見ながら、マーリネイト嬢はどこか気まずそうな笑みを浮かべていた。
「私の、父です」呆れた声色だった。
マルタポー氏の顔は何度か町で見かけたことがあるため、改めてマーリネイト嬢の口から紹介されるまでのことでもなかったのだが、今僕らの方に走ってきている男性は僕が町で見かけたことのある「お人好しの富豪」とは印象がまるで違う。あそこにいるのは、ただの「心配性な父親」だった。
「……娘想いの素敵なお父さん、だと思うよ」
「ちょっと過保護すぎるところがありますけどね。いつまでも私のことを子ども扱いしてくるあたり」
「親にとっちゃ、自分の子どもはいつまでも子どもらしいよ。年齢に関係なく」
「私ももう立派な大人なのに……。でも、一緒に暮らしていて嫌な父親ではありません。亡くなった母の分まで、私のことを大切に育てて、愛そうとしてくれているんだろうなとは、なんとなく感じていますから」
娘のために一生懸命になりすぎる父親の姿に呆れてはいるようだったが、マーリネイト嬢の表情は嬉しそうだった。
「そっか」
マルタポー氏が僕らの前に到着するまでには、そうやって悠長に会話をするほどの暇があった。
僕らの目の前でぜぇぜぇと息を切らしながら、まんまるな顔に汗を滴らせているのは、マーリネイト嬢の父親であるマルタポー氏。「お金をわんさか抱えてる人間は大抵嫌なやつ」という偏見を持つ人間も多い中で、マルタポー氏は唯一その偏見の例外にあたる存在だろう。困っている人がいればすぐに助けに行って、自分に何かできることはないかと甲斐甲斐しく世話を焼く。そんな性格に加えて、愛嬌のある顔やふくよかな体つきをしているものだから、この町でマルタポー氏のことを悪者だと言う人間はほとんどいない。
以前この屋敷を訪ねた時は仕事の都合で不在だったようだが、今回の訪問では無事に挨拶ができそうだった。もっとも、それはマルタポー氏の呼吸が整ってからの話になりそうだが。
「あまりお父さんの心臓をいじめないでくれネイト……。いや本当に……。無事だったから良かったものを、もう朝からずっと、ネイトの身に何かあったんじゃないかってお父さんは心配で心配で……」
「ごめんなさいお父さん。どうしても行きたい場所があって」
父親に対して素直に頭を下げて謝ったマーリネイト嬢が、ちらりと僕の方を見た。その視線に誘導されるように、顔の汗をハンカチで拭っているマルタポー氏も僕を見た。その目に敵意や殺意のようなものは込められておらず、むしろ安堵の気持ちに満ちていた。娘が無事に自分の元まで帰ってきたことへの安心感からか、彼の目にはうるうると涙が滲んでいた。
「君がレドフィル君だね。初めまして、話は色々ネイトから聞かされてるよ。なかなかいい男じゃないか。それで、その、うちの娘が何か迷惑をかけたりはしなかっただろうか……」
「いえ。これといったことは何も」
今朝方の出来事は伏せておくことにした。まさか自分の娘が、「鍵が開いていたから」という理由で僕の家に忍び込んだなんて話は信じないだろう。信じたくもないだろうし。
「それならよかった。今夜も安心して眠れそうだよ……。おっとそうだった、大事な挨拶を忘れていた。マーリネイトの父のマルタポーだ。これからよろしくね」
にこやかな笑みを浮かべるマルタポー氏が差し出してきた右手を、僕も握り返す。自分の手をまるごと飲み込んでしまいそうな、大きくてふっくらとした、少し汗ばんだ手のひらは不思議と握り心地が良かった。
マーリネイト嬢を探してつい先ほど町に出かけたと言う執事のタミヤさんとは、運悪くすれ違ってしまったようだった。しばらく待っていれば戻ってくるだろうが、その役目はマルタポー氏が引き受けることとなった。その一方で僕は、マーリネイト嬢にやや強引に腕を引かれて再び屋敷の敷地内へと踏み入りまた玄関をくぐってしまった。その途中でマルタポー氏から「あとでゆっくり二人で話でもしないか」と誘われてしまったことも重なり、僕の今後の予定は、家を出る前に計画していたものとはだいぶ変わってしまった。
マーリネイト嬢は再び僕を連れてあの静かな庭園に、サヒレス園へやってきた。サヒレス園は相変わらず、外界と切り離されたかのように静かで、庭園の植物が風に揺れる音と、僕らが動くたびに鳴る物音ばかりが聞こえていた。初めてこの屋敷を訪れた時のように、僕らは庭園の真ん中に設置された椅子に座った。テーブルの上に紅茶やお茶菓子はない。
かすかに感じる口寂しさを埋めるのは、思いつく限りの話題を口にするだけの、オチのない会話だった。
「父はどうでしたか? 初めて会ってみて」
「予想通りの人だった。町で見かけたあの人だなって感じ。優しくて、裏表がはっきりとしない、お人好しの、娘に一途な父親」
「『自分もああなりたい』というふうに、憧れたりしますか?」
「もちろん。僕みたいな人間が立派な父親になれるとは思えないからこそ、一層強く憧れるね。ないものねだりってやつかな」
話の流れでうっかり僕自身を卑下する言葉を口にしてしまったことに気づいた。あっと思って咄嗟に自分の口を手で隠すも、既に言葉にしてしまった以上取り返しはつかない。マーリネイト嬢はむっとした表情を見せた。
「ごめん」
その場凌ぎでしかない僕の謝罪を聞いたマーリネイト嬢の顔からは、ほんの少し不満の色が消えた。が、納得はしていなさそうだった。
なるべく会話の中で自分を下に見るような発言はしないよう心がけつつ、その後も僕たちは会話を続けた。
「レドフィル様。少しお聞きしたいことがあるのです」
続けていた会話がひと段落し次の話題へと移り変わろうとしている最中に、何の前触れもなくマーリネイト嬢がやけに真剣な口調で僕にそう尋ねた。緩んでいた僕の気持ちも瞬時に張り詰める。
「お酒は、美味しいのでしょうか」
真剣な口調と雰囲気は釣り合わないどこか子どもっぽい質問に、僕の体からは無駄な緊張が一気に抜けた。
「まぁ、物によるかな。あとはその人の好みとかで色々変わってくるだろうし。僕もお酒は好きだけど、特別詳しかったり、味覚に自信があるわけじゃないけど」
「私もお酒、飲んでみたいです」
「……これまた急な話だね。何か理由でもあるのかな」
「ただの好奇心です。それに、レドフィル様と一緒なら父も安心して私にお酒を飲ませてくれると思うので。……少し浅はかでしょうか」
育ちの良いお嬢様でも、人並みにお酒に対する好奇心は持ち合わせているんだなと感心した。同時に「あなたの前でなら酔ってもいい」とも捉えられるマーリネイト嬢のその言葉は、彼女自身が僕に対して絶対的な信頼を寄せてくれているんだとも実感した。
お酒の味と酔いの感覚は若いうちから掴んでおけと誰かから聞いたことがある。マーリネイト嬢もお酒が飲める年齢ならば知っておいて損はないだろう。しかしつい先ほど聞いた通り、彼女がお酒を飲むことをマルタポー氏はあまり良くは思っていない。年頃の男女が二人きりでお酒を飲もうとしているのなら、なおさら止めにかかってもおかしくはない。
しかし、願わくば彼女と一緒にお酒を飲む時間を共有してみたいというのが僕の本心である。
「このあとマルタポーさんと二人で話してくるから、その時にそれとなく聞いてみるよ。『一緒にお酒を飲んでもいいか』ってね」
「ありがとうございます。楽しみにしておりますね」
椅子に座ったまま深くお辞儀をしたマーリネイト嬢は今日も麗しい。こんなにも素敵な女性が自分と一緒にお酒が飲みたいと言い出している。今まで誰も見たことがない、彼女の酔った姿をこの世界で初めて目にすることになる男になれるのか。
酔ったマーリネイト嬢はいったいどうなるのだろうか。ひと夜の過ちも、お酒のせいにしてしまえるのではないか。胸をざわつかせる期待がふつふつと湧き上がってくる。エミに対して抱いたこともないこの気持ちが、なぜ今になって急に。
これは僕が童貞のままだからなのか? いやそんなはずは。
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