側から見れば

 以前に一度だけ、酒場で言い争いをしている女性二人を見たことがある。僕とは関わりの薄い、名前と顔くらいは知っているがそれ以上のことは知らない、そんな彼女たちの会話は、今にも殴り合いに発展するのではないかいうほど殺伐としていたのをよく覚えている。


 その二人の女性の間に挟まる男性が酷く申し訳なさそうな顔をしながら、なんとか二人を宥めて口論の仲裁をしようと試みているのだが、なかなかどうしてこれが全く上手くいかない。手助けに入ろうかとも思ったが、話の内容から察するに、この口論の火種となった存在があの男性である以上、当人たちで解決した方が良いのではないだろうか。


 僕はちびりちびりと酒を飲むふりをしながら聞き耳を立て、ヒヤヒヤとした、それで少しワクワクとした気持ちを抱えていた。結婚を誓い合った仲でありながら、ちょっとした気の迷いで他の女性に手を出すなんて、当時の僕は「なんて貞操観念の薄い男なんだ」と男性のことを鼻で笑っていた。忘れようにも忘れられない、そんな夜の出来事だ。


 色恋沙汰の揉め事というのは、側から見ている分にはかなり充実した見応えのある演劇のようだ。しかし実際に役者として舞台に上がってみるとどうだ。揉め事の渦中にいて、こんなにも居心地の悪さと刺されたように痛む腹痛に苦しむことはそうそうないはずだ。


 現状、僕の目の前に立って会話をしているマーリネイト嬢とエミはこれが初対面。「自分は今、痴情のもつれの現場を目の当たりにしている」と判断するには、いささか急すぎるような気もする。またその解釈には、僕の都合の良い妄想も含まれているため尚更。彼女たちが腹の底でどんな感情を持って互いの顔を見ながら接しているのか、僕には見当もつかない。


 一人の男の紹介で知り合った、初対面の女性同士が仲睦まじげに会話をしている。そう見るべきはずの光景が、今の僕にとっては腹痛の種でしかない。

 

「あの、エミ。そろそろいいかな。昨日の約束通り野菜を持ってきたから、必要なだけじゃんじゃん持っていってよ」


「あっ、そうだったそうだった。いつもありがとねレドフィル」


 エミは短い感謝の言葉を口にした後、僕の隣を通り抜け野菜の積まれた荷車の方へ小走りで向かった。彼女の後を追おうと後ろを振り向いたところで、服の裾をきゅっと誰かにつままれた。その「誰か」の正体が誰であるかはもうわかりきっているだろうけども。

 

「ネイト、さん?」


 僕の服の裾をつまむ彼女の指には、僕をこの場から離すまいとする想いが力強く込められていた。何かを言いたげな薄暗い表情をした俯きがちな顔も、見えない拘束具となり僕の体をこの場に縛り付ける。


「一緒に行くよ」


「……はい」


 人の心を読むことは僕にはできない。でも何を思っているのかを察することくらいはできる。生来人の反応に敏感だった僕はその能力に秀でていた。相手の反応や態度がわかりやすければずっと容易い。ずっと便利だと思っていた察しの良さが、今では随分と恨めしい。


 真剣な表情で野菜を選んでいるエミの横に立ち、仕事柄もう口癖になってしまった言葉を彼女にかける。


「何か気になるものはあったかい?」


「いや、特には。でも相変わらず立派な野菜ばっかで惚れ惚れしちゃうな。レドフィルの作った野菜ばっかり食べてると、町の外から入ってくる野菜たちじゃ満足できないかも。向こうの野菜もそれなりに美味しいんだけど、ほとんど変わらない値段でもっと良い野菜が手に入っちゃうからさ。まぁ、それはレドフィルが変に安すぎる値段をつけてるのがいちばんの理由なんだけど」


「質で勝っても量では負けるさ。荷台いっぱいに載せるだけでも精一杯の僕と、町の外に流せるだけの量を作れる誰かさんたち。将来どっちが農家として生き残るかは明白だからね。もう質だけじゃ勝負できない時代ってことだね」


「じゃあつまり、美味しい野菜を作れるレドフィルが、もっとたくさん野菜を作れるようになれば敵なしってわけね」


「僕の苦労を知っているわりに、随分簡単そうに言ってくれるじゃあないか、エミさんよぉ」


 手で口元を小さく隠しながらエミがウフフと穏やかに笑った。


「それじゃあ、荷台のこっち側に寄せてある野菜全部買うね。カゴ持ってくるから、ちょっとここで待っててくれる?」


「わかった。あとそれから、お金の方も忘れないでくれよ」


 僕の返事を聞いてエミは酒場の中へと戻っていった。荷車のそばに残されたマーリネイト嬢と僕は、エミが開けたままにしていった玄関扉をじっと見つめていた。


「羨ましい、です」


「……エミが?」


「はい。私にはないものをたくさん持っていらっしゃるので、とても」


 寂しげな目をしたマーリネイト嬢に「それってたとえばどんなもの?」とは訊かなかった。訊けなかったと言う方が正しいかもしれない。


「私もいつか、ああいう女性になりたいです」


「なれるよ。いつか必ずね」


 根拠はない。


「……すぐには、なれないのでしょうか。私もエミ様と同じように、レドフィル様と楽しくお喋りがしたいのです」


「まぁ、今日明日になれるかって言われるとちょっと困るかな。僕とエミも長い付き合いがあってこそ今みたいな会話ができるのであって……。まぁつまり、時間はどうしてもかかるよ。僕もネイトさんとは仲良くなりたいと思ってるからさ。ゆっくりお互いのことを知って関係を深めていきながら────これは前も言ったか」


「ゆっくりお互いのことを知って……ですか。やっぱり」


「そうそう。ネイトさんの焦る気持ちはわからんでもないけど、何事も焦って始めたことって、大抵どこかで躓いちゃうからね。その躓きで大きな怪我をしないためにも、僕らはゆっくり少しずつ仲を深め合ってく方が────」


 話をもう少し広げようとしたところで、カゴを抱えたエミが戻ってきたため、僕は話を一旦止めた。


 エミは荷台の隅に寄せて集めておいた野菜を次々とカゴの中へ入れていく。カゴの大きさや野菜の重さを考慮するに、何度かに分けて少量ずつ運ぶべきなのだが、エミは一度に持てる限りの野菜をカゴへ放り込んでいく。野菜で満たされた重たいカゴを両手で抱えてなんとか持ち上げたものの、エミの足取りはカゴの重みのせいで若干ふらついている。見ちゃおれん、と咄嗟にエミに手を貸してやった。カゴを下から支える彼女の小さな手に自分の手を重ねて、ぐっと持ち上げる。


「ちょ、レドフィル、いいってそういうの! マーリネイトさんと見てる前でこんなのダメだって!」


「うちの大切な野菜たちを地面に落としてダメにされるよりはずっと平気」


 二人でカゴを支え合いながら店の中まで運び、土台のしっかりした場所にカゴを置く。大した疲労を感じていない僕の隣で、膝に手をつきながら激しめに息を切らしているエミに手をそっと差し出す。エミは頬にひとつ汗を垂らしながら、差し出された僕の手に自分の手を置いて、それを支えにするように体を持ち上げた。


「なんか、ちょっと焦って無理しちゃった。ごめんね、レドフィル。少し休んでれば楽になると思うからさ、大丈夫。ごめんね」


 野菜の代金を要求する機会を完全に間違えてしまった。


 なぜ今こんな時に紛らわしいことをしてしまったのか自分でもよくわからない。多分僕も焦っていたんだと思う。「え、あぁうん」と自分の過ちを誤魔化すような曖昧な返事だけして、僕は改めてエミに野菜の代金をちゃんと請求した。


 まだまだ軽かったお金を入れる袋は、これでかなり重量が増した。袋を満たすほど、とまでは言えないが、今後しばらくの生活に困ることはなさそうだった。

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