迷い込んだ酒場にて

 ふらふらと町をさまよい、たどり着いたのはまだ活気の残る酒場だった。僕の家ではなく、エミのいる酒場。明かりに吸い寄せられる羽虫のように、僕は酒場の戸を開けその賑やかしさの中に迷い込んだ。


 客の好奇の視線が僕に集まるのを感じた。だがその視線や、「おぉいレドフィルじゃないか」という呼びかけに反応することなく、僕は店の端っこの空いていた席に座った。そして体の中にある空気と一緒に、後ろ暗い気持ちも全て追い出すつもりで大きく息を吐き出す。


「珍しいじゃないか。店に来る前から酔ってるなんて」


 酒場の店主をしている親父さんが僕に話しかけてきた。


「酔ってない。酒は確かに飲んだけど、もうとっくに覚めてる」


「酔ってる奴はみんなそう言うんだよ。まぁ、なんだ、その……何があったかは聞かないでおくけど、これ以上の深酒はやめておきな。健康にも家計にも響くよ」


 その口調はいつもの朗らかで気さくな雰囲気でありつつも、言葉の節々には僕の様子を真剣に心配してくれている優しさが含まれていた。無銭飲食と店内での迷惑行為は絶対に許さないという確固たる意思が滲み出たその厳格な顔つきに若かりし頃の僕たちは酷く怯えていたものだが、人は見かけによらない。


 無意識に辺りをキョロキョロと見渡しエミの姿を探すも、店の中に彼女の姿を見つけることはできなかった。僕のそのわかりやすい様子を見てか親父さんが「エミちゃんなら厨房にいるよ」と親父さんが肌がつるりと露出した頭を、ぽりぽりと指で掻きながら親切に教えてくれた。


「呼んでこようか? あの子もきっと喜ぶだろうしさ」


 エミが僕に対して恋心をいただいているのは周知の事実である。彼らからすればそれは僕とエミに対する、さりげなくもお節介な気遣いなのだろうが、今の僕には少々その気遣いは毒でしかない。


 「いや、今は一人でいたい」と声にしたはずなのに、親父さんはなぜかニコニコと微笑みながら「わかった、じゃあ呼んでくるよ」と僕に伝えて店の奥へと入っていった。夜風に当たって酔いが覚め切った気でいたのだが、考えていることとまるで逆のことを口にしてしまうあたり、僕は珍しく酔っているらしい。それもかなり酷く。


 本当に僕がここにいるとは思わない、という風な疑わしげな表情を浮かべたエミが店の奥から出てきた。その表情も僕を見つけた瞬間にどこかに消えパッと明るい笑顔に変わった。彼女が僕と出会えて嬉しくなると同じように、心の中ではその気持ちを否定しつつも、僕もきっと彼女に会いたかったのだろう。それにしても、彼女の反応や態度の移ろいはわかりやすすぎるな。あれでは酒場の常連客たちに「エミはレドフィルのことが好きだ」と広く知られていて当然だろう。


 まだ仕事の途中のはずのエミが僕の隣の席に座った。「仕事は?」と言葉足らずに尋ねると「しばらく休憩」と微笑みながらエミは答えた。


「マーリネイトお嬢様とのお酒、美味しかった?」


 今一番思い出したくない人物の名前を言われて、思わず眉間に皺が寄る。


「だったらここにいないと思う」


 自分の想像以上に暗い声が出た。


「あっ……うん……そっか。なんか嫌なこと訊いちゃったかな、ごめんね、レドフィル」


「大丈夫。でも、今はあまり彼女のことは思い出させないでほしいかな」


 その言葉を最後に、僕らの間にはほんの少しの間沈黙が生まれた。何を話せばいいのかが何もわからない。エミと二人きりになったときは何を話していたかを思い出そうとするのだが、頭に浮かぶのは、ベッドに横たわって僕を誘惑してきたマーリネイト嬢の姿ばかり。本当に厭になる。


 交わす言葉はなく、二回か三回ほど溜息だけを吐いたところで、少し離れた席で酒を楽しんでいた酔っ払いが「おぉいエミぃ」と叫んだ。僕とエミは揃って声のした方を振り向いた。


「おれあもう酔っ払ってまともに歩けねぇかもしれねぇ、だから家まで送っていってくれねぇかなぁ。送ってくれたらお礼になんかいいもんうやるからよ」


 僕の耳にはそう聞こえたのだが、あまりにも舌が回りきっていない喋りのため、実際のところは何を喋っていたのかはよくわからない。エミを呼び、自分を家まで送ってくれと頼んだであろうその男性の顔を見て、僕はそいつが顔見知りであることを思い出し、「あいつ、結婚してなかったか?」と首を傾げた。


 エミはこの酒場の看板娘である。エミが僕のことを好いているというのは、酒場の常連客にとっては馴染み深い噂話ではあるのだが、それはさておき、彼女と一晩を共にしてみたいと考える男たちは多いわけである。


 それは妻帯者であっても、男であるなら考えて当然のこと。何せ町中を歩き回っても彼女以上に恵まれた、友人の表現を借りるのであれば「極上モン」の体つきをしている女性はいないのだから。それは僕も実際に確かめたからよくわかる。その仕返しに僕の脳天めがけて飛んできたのは拳の一撃だったが。


 その酔っぱらいの誘いにエミはなんと答えるのか。僕は内心ヒヤヒヤとした気持ちでその様子を見守っていた。


「いやよ。今は私手が離せないから、店長にでも頼めば?」


「ちぇっ、やっぱ駄目か。それなら自分で歩いて帰るさ。男の肩を借りて家に帰るくらいなら、そこらへんの道端で寝てた方が俺はマシだね」


 その聞き捨てならない言葉を聞いてか、仕事中の親父さんが思わず口を挟んだ。


「言ってくれるじゃねぇか。そんな冷たいこと言わねぇで、素直に俺の肩くらい借りていけよ。そんで家まで送り届けた後、お前の奥さんに話してやるよ。『ついさっきうちの店で女の子口説いてた』ってな。お前の奥さん、かなりのヤキモチ焼きだったよなぁ。おぉ恐ろしい。嫉妬深い女は何しでかすかわからんぞぉ」


「いや、待て、悪かった、本当にそれだけは勘弁してくれ」


 舌足らずな喋りもどこへやら。妻に叱られることへの恐怖を想像して酔いが覚めたのか、男はニヤケ面のまま先ほどの軽率な発言について撤回し、ひとりで店を出ていった。しかし足取りはふらふらとおぼつかなく、あれでは朝が来ても家まで帰れるかわからない。そのあぶなげな様子を見てか、親父さんは「見ちゃおれん」と言って店を飛び出し、男の帰宅に手を貸してやった。


 酔っ払いと並んで歩く親父さんの背中を静かに見送った後、店の中には僕とエミだけが残った。残っていた客も金をたんまりと置いて店を出ていいった。


 また僕らの間に生まれた沈黙を、今度はエミが自分から破った。


「ここで働き始めた頃は、ただの親切で送っていったこともあったんだけどね。面倒ごとに巻き込まれるのが、だんだん嫌になっちゃってさ。悪いなとは思いつつも、いつも断ってるんだよね」


「面倒ごとって?」


「それは、えっと、まぁ、あんまり大きな声では言えないようなこと、かな。体を触られるなんていつものことだし、どいつもこいつもそういうお誘いばっかりしてくるから、もう本当に嫌。おまけにしつこいんだよね、そういう連中って。どれだけ断ってもまた次の日、また次の日も同じこと繰り返してきてさ……。だから私、男の人のことあんまり信用できなくなっちゃった」


「…………ふーん」


 日々溜まり続ける不満をここぞとばかりに吐き出し続けるエミが、そこにはいた。なかなか見られない光景である。


 しかし、彼女は「男の人は信用できない」と言いながらも、僕の隣に何の躊躇いもなく身を置き、ある時には夜更けの帰り道を僕と共にした。だからと言って、酔いの勢いに任せて「じゃあ僕はどうなのさ」なんて踏み込んだ質問が僕に出来るはずもなく、話はちゃんと聞いていたよと示すように、適当な相槌を打つだけに留めた。


「それじゃあ私、今のうちにお店の片付け始めよっかな」


「僕も何か手伝おうか?」


「いいよ。レドフィルはしばらくそこで休んでなよ、珍しくかなり酔ってるみたいだし」


「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」


 仕事に戻っていったエミを見届けた後、僕はテーブルの上に乗せた両腕を枕がわりにして、ほんの少しだけ目を閉じておくことにした。親父さん今に戻ってくるだろうし、彼が戻ってきたら僕も家に帰るとしよう。マーリネイト嬢と過ごした夜に味わった嫌なものも、この場で過ごすことで少しは紛れた。これからどうするかは、明日になってから考えるとしよう。


 ────しかし、なんだ。目を閉じているせいか音に対して非常に敏感になる。そのせいか、エミが店の中で仕事をしている音を聞いていると、彼女が店のどこで何をしているのかが頭の中にぼんやりと浮かんできて、何だか不思議と眠気が増してくる。


 いや────僕はただ目を閉じているだけで────そんな────眠るつもりはないのだが────こういう生活音は、聞いていて心地が良いな────あぁ────眠い────。


 最後にひとつだけ大きなあくびをしたのは、覚えている。

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