第二章

非日常的な朝

 夢を見た。上手く言葉では言い表せないけど、すごく不思議な夢だった。僕やマーリネイト嬢、エミやブルードを主な登場人物とした、胸に重たい物を残していくような恋愛劇が始まったと思えば、勇気と希望と勝利の喜びに満ちた冒険譚が始まったりと、わずかな睡眠時間の間に見たとは到底思えない、寝起きに倦怠感を覚えてしまうほど壮大な夢だった。この夢の続きを見るのは勘弁したいところだが、悪夢ではなかった。


 窓の隙間から差し込む眩しい日光を受け、僕の意識はようやく覚醒した。覚醒した、と言ってもまだまだ途中段階。微睡の最中にいる僕の全身は起床直後の気だるさに包まれ、外から聞こえてくる小鳥の囀りは一種の子守唄となり、一度追い払ったはずの睡魔を再び僕の元まで引き寄せた。


 昨晩の深酒と、やけに現実味のある夢を見たせいで身体は目覚めを拒否している。眠ってはいけない。だが眠い。


 僕の心象風景の中で繰り広げられる理性と睡魔の戦争は、睡魔の方が若干優勢であった。この戦況を覆すには僕一人の力ではどうにでもできない。援軍を、この勝負に勝つには援軍を呼ばなければ────。


 ぼやけた視界の真ん中に、僕の顔を覗き込む見知らぬ女性がいきなり現れた。僕の目の前に現れた町娘の幻覚は、どこかマーリネイト嬢を彷彿とさせる姿形をしており、昨日の出来事と夢の余韻をいまだに引きずっていることを自覚させた。突然の出来事に思わず体が強張り、呼吸が止まる。過剰とも言える援軍の支援能力によって睡魔は敗走を余儀無くされた。僕の意識は綺麗さっぱり、後悔や未練を残すことなく覚醒した。


 役目を終えたマーリネイト嬢の幻覚も消えるだろうと思った。しかし、彼女は依然として僕の顔を覗き込んでいる。


 優しく甘い花の香りを漂わせ始めた幻覚がにこりと僕を見つめながら微笑んだ。


「目が覚めましたか? レドフィル様」


 近頃の幻は本気で人間を混乱させにきている。寝ぼけたふりをしてそう考えることでしか、目の前の現実を受け止めきれそうになかった────。


 年季の入った質素なテーブルを挟み、僕らは向かい合って座った。座り心地の良くないであろう椅子にマーリネイト嬢を座らせていることに申し訳なさを覚えつつも、上品な座り姿勢を保ち続けるマーリネイト嬢に僕は見惚れていた。


 後頭部に残る鈍い痛み──マーリネイト嬢がなぜか部屋にいることに驚いて、ベッド近くの壁に思い切り頭をぶつけてしまったのが原因──を気にしながら、彼女にかける言葉を探していた。マーリネイト嬢をもてなせるようなお茶やお菓子が僕の家にあるわけがなく、古さと歪みが無視できなくなり始めたテーブルの上には、寂しさと空しさだけが乗せられていた。

 

「なんで、僕の部屋にいるのかな。マーリネ──ネイトさん」


「鍵がかかっていなかったので」


「質問の答えになってないな。それは僕の部屋にいる理由じゃなくて、どうやってこ

の部屋に入ったかっている方法の話で────って、えっ、鍵が開いてた?」


「はい。いくら扉を叩いても返事がなかったので、試しに扉に手をかけてみたところ、すんなりと開きました」


 どうやら昨晩、酒に酔っていたせいか戸締りを疎かにしてしまったらしい。自分の家にマーリネイト嬢がいるのは自分の不注意が元凶であったという事実に、僕は頭を抱えた。部屋に入ってきたのが強盗ではなくマーリネイト嬢だから良かったものを。いや、良くはない。


 ひたすらに暗く落ち込み続ける思考の中で、ふと、いや待てよ、と気づいた。


「ってことは、たまたま鍵が開いてたから勝手に部屋に入ってきてただけで、どのみち君は僕の家に来てたわけか。それ、下手したらずっと、僕が気づくまで前で待ち続けることにならない?」


「そうですね」


「そうですね、って、そんな呑気なことを……」


 僕の不安をよそに、マーリネイト嬢は平然とした様子で答えた。彼女に自分が富豪の娘であり、数多くの男から狙われているという自覚はあるのだろうか。


 彼女なりに「自分がマーリネイト嬢である」ということが町の人間にばれないよう努力した形跡は見られる。服装は町の女性たちが普段から着ているようなお手頃で質素な服。屋敷で見たあの清潔感と高級感に満ちたお洒落な服装ではない。彼女の膝の上に乗せられている広い布も、顔を隠すための頭巾として使っていたらしい。ただ、服装を変えて顔を隠したところで隠しきれない魅力や雰囲気というものがマーリネイト嬢からは感じられる。

 「まさかこんな朝早くからレドフィルの家の前にマーリネイト嬢がいるわけがない」とどれだけ強く思い込んでいたとしても、いつかは必ず気づかれる。家の前が大騒ぎにならなかったのは、本当に幸運に恵まれたと思う。

 

「まぁいいか、何事もなかったみたいだし。それで、話を戻すけどなんで僕の家まで来たのかな。ネイトさん」


 頬に指を当て、斜め上の方を見ながら、わざとらしく考える素振りを見せるマーリネイト嬢。まさか何の理由もなしにここに来たわけではあるまいと、「とにかく僕に会って伝えなければいけない重大な話があった」という答えを勝手に期待していたのだが、残念ながら、彼女の口から出た返答が僕の期待に応えることはなかった。


「会いたくなったから、ではダメですか?」


 そんな理由で家には来ないでくれ、と怒鳴ってやりたかった。ただ、マーリネイト嬢の愛らしい微笑みの前ではそんな怒りもすぐに消える。がつんと強く叱ってやれない自分の甘さを強く恨んだ。彼女の父親であるマルタポー氏も、こんな気分を何度も味わったのだろうか。

 頭を抱える僕を見ながら、僕の深い溜息を聞きながら、君は何を思うのか。


 幾分か気分もマシになってきたところで、僕は今後どうするべきかを考え始めた。


 最優先事項は、マーリネイト嬢を屋敷へ送り届けることだろう。この場でマーリネイト嬢に冷たく「屋敷に戻ってくれ」と訴えたところで、彼女が素直に帰るとは思えない。それに、僕の訴えを聞き入れてくれたとしても、彼女一人を出歩かせるなんて真似は気が引ける。マーリネイト嬢の帰り道には同伴者が、すなわち僕が近くにいる必要がある。一緒に歩いている光景を町の人たちに見られるのは別に問題ではない。とっくにマーリネイト嬢と僕の噂は広まっているのだから。

 

「ネイトさん。この後、僕は野菜を売りに街へ出かけるんだけど、一緒に来るかい?」


「まぁ! ぜひご一緒させていただきます!」


 マーリネイト嬢は楽しいことが起こることを期待しているような明るい笑みを浮かべた。


 実際、野菜を売りに出かけるというのは建前で、本当の目的は彼女を屋敷の近くまで連れて行くことにある。この場で「一緒に屋敷に帰ろう」と言うより、町で僕と一緒の時間を過ごし、満足してもらった後に屋敷へ戻るよう促せば素直に従ってくれるだろうと僕は考えた。


 マーリネイト嬢が僕の家にいると困る、というわけでは断じてないのだが、むしろそこまで信頼や好意を寄せてもらえているのだなと嬉しく思う。だが、年頃の女性が男性の家に出入りするのはよろしくないと、良く言えば理性的、悪く言えば意気地なしな僕は考える。何度も言っているが、じっくりと時間をかけて互いの仲を深め合い、揺らぐことのない確かな信頼と愛情を育んだ上で、一歩ずつ着実に関係を進めていくべきだ。感情や欲求、一時の気の迷いで後悔することがないように。


 仕事へ行くための準備を整えながら、マーリネイト嬢との接し方についてあれこれ考えをまとめていた。

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