静かな夜に

 酒場の看板娘であるエミが、僕に好意を抱いているのはかなり前から気づいていた。本人は隠し通せているつもりかもしれないが、その好意は僕だけでなく、周りの人間にもバレバレだったりする。僕もエミのことは好きだった。友人としてではなくひとりの異性として。だから、言葉より態度で語る彼女の好意に気づいてしまった時はすごく嬉しかった。


 だが、僕らの関係は以前友人のまま。「なぜそんなもどかしい関係を続けているのか」という問いには、関係が変わってしまうことへの恐怖や、二人が共に歩んでいくことになる将来への不安など、キリがないほど答えが思い浮かんでくる。


 だが一番問題なのは僕の自信のなさ、一歩を踏み出す勇気が著しく欠けていることだろう。エミがついに想いを打ち明けたとしても、彼女を幸せにする自信のない僕は、彼女の告白を拒否。いや。拒絶するかもしれない。必死に言葉を選び、なるだけ彼女を傷つけないよう──告白を拒絶した時点で、「傷つけたくない」というの僕のは勝手すぎる我儘にしか思えないが──この告白を無かったことにしようとするだろう。むしろその可能性のほうがずっと高い。そうはっきりと言える自信はある。もちろん、僕がエミに告白をすることもない。


 お互いの胸に秘めたままの思いを打ち明けることはなく、それが今後も続いていくものだと思っていたのだが、あのマーリネイト嬢から届いた恋文がキッカケで、「現状維持」という策が封じられてしまった。


 僕はいったいどうするべきなのかがまるでわからない。


 あれだけ素直に思いを打ち明けてくれたマーリネイト嬢の愛情を拒否してエミに近づくのは、マーリネイト嬢に対して申し訳ない。しかし、エミからの好意に気づいていながらも、それを無視してマーリネイト嬢の愛情を受け入れるのも心苦しい。「どちらも選ばない」という卑怯な選択肢を臆病な僕にとれるはずもなく、僕はこうして頭を抱えて唸るくらいのことしか出来ない。


 どちらか一方を選ばなければいけない状況に立たされているのに、その状況においても僕はひたすら足踏みを続け、あわよくばその場所から逃げ出そうとしている。


「富豪の美人娘に酒場の看板娘。羨ましい限りだな」


「他人事だからって好き勝手言ってくれるねブルード。僕だって真剣に考えてるのに────」


「真剣に考えてる? いつも『自信がないから』で逃げてるようなお前がか? 冗談はよせ」


 ブルードの言葉に僕は何も言い返せなかった。「冗談なんかじゃない」と言いかけた僕の口はぽかんと開いたまま、吃り気味の声すら発することなく再び閉じた。真剣に考えている、はたして本当に僕はそうなのか。


 際限なく僕の心を支配していく悔しさを殺すつもりで、顎に力を入れて歯を噛み締めたところで僕の心境に大きな変化が訪れるわけはなく、空気を噛む痛みと震えだけが奥歯の方から蝕むように広がっていった。ぎりりと鳴った歯軋りの音が、嫌な感じで頭に響いた。


 思考の渦に溺れれば溺れるほど自分が嘆かわしい────。


 誰も彼も寝静まったはずの夜の世界で、月は南の空でぼんやりと光を放ち町を儚げに照らしている。僕は酒場の外に出て、無愛想な建物の壁に寄りかかって、肌寒い夜風を受けながら理由もなく星空を見上げていた。ブルードとは既に別れた後で、酒場に残る意味はないも同然。軽くふらつく足どりで家に帰ってゆっくり寝るべきなのだが、もう少しだけここに残っていたかった。


 酒場の奥からエミが店の片付けをしている物音が聞こえてくる。彼女は本当に働き者だ。こんな夜遅くになっても我が身を犠牲にする姿には、美しさよりも、寂しさを感じさせる。なぜ君はそこまでするのか。そんなに頑張る必要なんてどこにもないじゃないか。たまには仕事のことを忘れてゆっくりと休めばいいのに。


 エミはどうか報われてほしい。僕は切に願った。


 星空に向かって願い事を届けた後、僕は酒場の中へと戻っていった。丁度エミも店の奥から出てきたところで、彼女と目があった。酒場の広間に人がいるとは思わなかった、というふうにハッと目を開いた後、そこにいたのが僕で良かったと安堵したような微笑みを浮かべた。


「あっ、レドフィル。どうしたの? 私てっきり、ブルードと一緒に帰ったのかと思ってた」


「酔い覚ましにそこで風に当たってたんだ。そしたらちょっと体が冷えてきちゃって」


 咄嗟に考えた言い訳をエミは信じてくれた。何か温かいものでも出そうかと勧めてくれたが断った。代わりに何か手伝えることはないかと尋ねると、小柄な彼女では片付けにくい食器もあるということで、食器やカップの片付けを手伝ってほしいと言われた。僕はそれくらいならお安い御用さと頼みを聞き入れ、彼女と一緒に店の奥へ入った。


 エミから受け取った食器を決まった位置へ片付けていくだけの単調な作業。当然、手よりも口のほうが動く。


 「そういえば」と切り出したエミの表情は、どこか寂しげだった。


「レドフィルって、あのマーリネイトお嬢様から手紙をもらったんでしょ」


「うん。読んでるこっちが恥ずかしくなるような文章だったよ。それで屋敷に呼ばれて、お茶会をして……」


 もらった手紙が恋文だった、という話は既にエミも知っているようだった。マーリネイト嬢に出会ってすぐ抱きしめられた。お茶会の途中、突然求婚された。その話はわざと伏せた。


「どうだった? 可愛かった?」


「どうだった、って言われてもなぁ。女慣れしてるブルードならともかく、僕にはなんて言えばいいのかさっぱり────」


 その瞬間、僕の視線は無意識のうちに品定めするかのような怪しさを伴い、エミの体をするすると這い回った。


 マーリネイト嬢がああであったなら、それに対してエミはどうだ。顔のつくり、体つき、匂いや声、雰囲気、性格、家柄、将来の生活風景。ほんの少しの間の沈黙の間、僕の頭の中はマーリネイト嬢とエミの姿で満たされた。なんてことを考えてしまったのだ、と僕は自分自身を激しく責めた。そうでないとまた次にエミを見た時に平静を保てる気がしなかった。僕は目頭を指できゅっとつまみ、都合の良い夢から醒めた。


 言葉を途中で止めた僕を不思議そうに見つめながら、エミはかくんと首を小さく傾げた。


「……良い人だとは思ったよ、あのマルタポーさんと同じで。だけど、今はまだ彼女について知らないことの方が多いから、それ以上はなんとも言えない。だから、マーリネイトお嬢様のことは少しずつゆっくり時間をかけて知りたいなって」


 僕の答えにエミは「ふぅん」と返した。無関心を装いつつも、見え隠れする彼女の本音がいじらしい。


「結婚とか、したいって思った?」


 エミはまた呟いた。


「……それも含めてだよ。まだまだ僕にはわからないことが多すぎるからね」


 その後は特に目立った会話もなく、片付けを終え、店の戸締りを終えた後僕らは揃って店を出た。夜道を女性一人で歩かせるのはどうかと思い、彼女を家まで送り届けた後、僕はようやく帰路に着いた。


 酔いがまだ残っている割に足取りや意識はしっかりとしていて、道に迷うこととなく自分の家に辿り着いた。家の扉を開け、1日の余韻に浸ることなく、そのまま吸い寄せられるように僕の体はベッドの上に倒れ込んだ。


 一日中外に出ていたせいか、ようやく家に帰ってきたんだという実感が湧いてくるにつれて、疲労と安心感がどっと僕の体にのしかかってきた。抵抗の様子を見せることなく僕の体は睡眠の準備を整え始め、瞼を閉じる頃には僕の意識は半分以上眠っていた。


 微睡む暇もなく、僕は眠った

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