酒場の看板娘

 「一杯だけ、一杯だけ飲んだら帰ろう」とどれだけ肝に銘じたつもりでいても、酒場の賑やかな空気と酔いの具合に乗せられてしまえば、誰だってその場に居座り続けてしまう。店に入る前はまだ明るかった空も今ではすっかり暗くなり、酒場の窓から迷い込んできた夜の風は冷たくひんやりとしていて、酔いで火照った体を冷ますのには丁度良かった。


 「酒場の倉庫を空にしてやる」という鍛冶屋のブルードの言葉通り、僕たちはテーブルの上に運ばれてくる料理と酒を物凄い勢いで食っては飲み、また注文して、食っては飲みを繰り返していた。


 酒が入れば皆饒舌になる。食事をすればお腹が膨れるのと同じくらいそれは常識的な事実であり、僕だけが特別ということはない。いることいらないことの分別もなしに、浮かんだ言葉や話題を後先考えず口にして、時には男だけの集まりらしい話題を切り出しては下品に笑う。


 僕たちの中で特に酒の影響を強く受けていたのは服職人の息子のクローファンだった。彼は仲間内で最も酒が弱いくせに、普段家に引きこもって服とばかり向き合っているせいか、こうやって仲間と集まるとすぐ調子に乗ってしまう。自分の器と限界を弁えすに酒を浴びるように飲む彼は、場をひとしきり盛り上げた後気絶したように大いびきをかきながら眠る。


 迷惑な奴だ、とクローファンと軽蔑することもできるのだが、その逆に、僕らはむしろクローファンのことを愛しげに、庭先の地面をつついている小鳥を見守るするような気持ちで見ていた。町一番の服職人である父親に強く憧れ、寝食を忘れ、人生を服作りに捧げているクローファンの血の滲むような苦労を知っている分、誰も彼の楽しみを邪魔したりはしない。


 そこからまたひとり、またひとりと机に突っ伏して寝始めるものが増え、自分の息子や夫の帰りが遅いことを案じた彼らの家族が酒場にやってきては彼らを連れ帰っていく。酒場の倉庫を空にするという僕らの目標は果たされることなく、ここで途絶えた。


 最後に残ったのは僕とブルードの二人だけ。生来の酒の強さが原因で、僕とブルードは今まで酔い潰れるという経験をしたことがない。そのため、すっかり人の消えた酒場にはいつも僕とブルードだけが残る。


「しかしよぉレドフィル、まさかお前があのマーリネイトお嬢様から手紙をもらうだなんて。世の中何が起こるかわからんな」


「それは僕も同じ気持ちだ。今でも自分があの屋敷にいたなんて信じられないよ」


「いや、どうだか。考えてみれば案外、マーリネイトお嬢様の男を見る目は確かかもしれん。お前はいつも自分のことを『貧乏な農家』だと下に見ているが、実際はどうだ。世の為人の為、自分を犠牲にして少しでも誰かの役に立とうとする立派な男だ。マーリネイトお嬢様も、町でそんなお前の姿を見て惚れたのかもしれんぞ」


「よしてくれ。僕は、なんというか、これっぽっちのことしか出来ないからさ。むしろ、鍛冶屋で働くブルードや、服職人のクローファン、他にも自分の店を持ってたり、町のために汗水垂らして働いてる立派な奴が僕の周りには大勢いる。だから、僕なんかより良い男なんてそこら中にたくさん────」


「ほらまた出た。『これくらいのことしか出来ない』『他にすげぇ奴がいる』『僕なんかより』。もうちょっと胸張って生きたらどうなんだ」


 ブルードは不満げに呟いてカップに残っていた酒を一気に飲み干した。カップを傾け喉を大きく鳴らして飲む様は実に豪快で、僕と同じ酒を飲んでいるはずなのに、ブルードが飲んでいる酒の方が美味しそうに見えた。


 僕も「これで今夜は終わりにしよう」と惜しみながら酒を飲もうとカップに口をつけた。あとほんの少しで唇と酒の水面が触れ合う時、誰かが僕たちの席のすぐそばに立った。カップに口をつけたまま視線をそちらの方にやると、真っ白なエプロンをかけた給仕の女性がそこに立っていた。


「おかわりはもういらない?」


「うん、今日はもうこれで止めにしておくよ。……悪いねエミ、こんな夜遅くまで仕事させちゃって」


「いいのよ。私、あんたたちの馬鹿騒ぎ見てるの好きだし。本当なら混ざりたいくらいだったけど、仕事中だからね」


 給仕の女性の名前はエミと言った。彼女はこの酒場で働く健気な娘で、僕の友人でもある。


 エプロンと同じ真っ白な生地の三角巾を頭に巻き、その三角巾と頭皮の間からは暗い赤色の髪が顔を覗かせていた。エミの赤髪は少しばかり癖がついていて、ただでさえ珍しい髪色に加えて癖毛であることを本人はそのことをかなり気にしていた。酒場の看板娘として愛されているエミは、看板娘という称号にふさわしく愛嬌のある顔立ちをしている。酔っ払いの相手を何度もしているおかげもあってか面倒見が良く、かと言って甘やかしすぎることもなく時にはがつんと厳しい一言を浴びせてくれる。マーリネイトお嬢様とはまた違う方向性の「素敵な女性」だろう。

 

「よぉエミ。お前また少し太ったんじゃないか? ほれっ」


 僕たちの席に残っていた空き皿を片付けるのに一生懸命になっていて隙だらけだったエミの尻を、ブルードが大きな手のひらではたいた。ぺしんと小気味良い音が鳴り、エミは「ひゃうっ!」と可愛らしい声をあげて体をびくりと跳ねさせた。抱えていた皿を落とさずにいたのには驚かされた。


「この馬鹿っ! 勝手に触るな!」


 悪戯に成功した子どものようにアハハハと高く笑っていたブルードの頬を、顔を真っ赤にしたエミは手のひらで叩いた。体重と手首の力が上手く乗ったその一撃は正確にブルードの左頬真ん中を捉え、先ほどとは違う鈍い音が酒場に響き、体格差だけでは絶対に勝てないであろうブルードに情けない声をあげさせた。その光景を見ていただけの僕も、ひりひりとした熱と痛みを左頬に錯覚するほど華麗な一撃だった。なんと恐ろしい。


 「まったく……」呆れた様子のエミが、左頬を押さえてうめいているブルードを見下ろしながら呟いた。


「そうだレドフィル。今度野菜持ってきてもらえる? 今日だけでかなり使っちゃったからさ」


「わかった。明日にでも持っていくよ」


 「ありがと」と微笑みながら短く呟いて、エミは店の奥へと引っ込んでいった。


 エミの姿が見えなくなると同時に、ブルードが体を起こした。彼の左頬は恐ろしいほどに真っ赤に腫れていて、あの一撃の凄惨さを物語っていた。左頬をさするブルードは、エミがこちらの方に戻ってこないかを注意深く確認した後、店の奥にいる彼女に聞こえないような音量で話し始めた。


「お前も触らなくてよかったのか、エミのケツ。ありゃあ極上モンだぞ」


 ブルードは柔らかいものを揉むような手つきをしながら、下卑た笑みを浮かべた。人の尻の良し悪しなんて僕にはわからない。女性の体つきを比較するという、女慣れしているブルードだからこその発言に僕は若干嫉妬した。


 だが、ブルードの発言を否定するつもりはない。実際、エミの体つきはかなり扇情的、ブルードの言葉を借りるなら「極上モン」なのだ。太すぎず細すぎずの間をゆく、程よく肉のついたあの身体はそう表現するのにふさわしい。優しく膨らんだ乳房や、枕にしたいくらい魅力的な尻。かぶりつきたくなるほど肉感に満ちた腿。それらを強調するかのように腰の辺りはきゅっとくびれている。


 酒場で働くエミの腰や腿の動きを舐め回すようにこっそりと観察しながら、時折手を出そうとしてお仕置きを食らう男たち。そんな彼らが頭に思い浮かべるのは月に照らされる彼女の柔肌と肉体の輪郭、それから快楽に蕩ける表情。この酒場の常連であれば、そんな卑猥な空想に耽るのはそう難しくない。


「遠慮しておく。触ったらどうなるかはもうわかりきってるからね」ブルードの腫れた左頬を見ながら僕は言った。


「そんな強がんなって、本当は触りたいんだろ?」


「否定はしない。でも彼女、あんなに嫌がってたじゃないか。僕はあんまり他人が嫌がるようなことはしたくないんだ」


「いやいや。あいつ、お前に触られたらむしろ喜ぶんじゃねぇの?」


「そんなまさか」


 ブルードは前のめりにになって僕の方にぐいっと近づいた。声は先ほどよりも一層静かになり、僕たち以外にはちっとも聞こえないようなものになった。


「エミの気持ちには、お前もとっくに気付いてんだろ?」


 ブルードからの質問に、僕は沈黙を返した。

 

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