友人たち
マーリネイト嬢とのお茶会を終え、僕が屋敷を出たのは太陽が西の方に傾き始めた頃合いだった。まだまだ外は明るいが、吹いた風の冷たさから迫り来る夜の気配を感じ取ることが出来た。
屋敷からの帰り道を歩く僕は、上機嫌という言葉を体現したかのような存在であった。自分の足が地面から少し浮いているような感覚を味わいながら、僕は酔っ払いのように大袈裟に腕を振って体を揺らしながら歩いていた。目に映る景色の彩度がぐんと鮮やかさを増し、つい先ほどまでの体験が全て遠い昔の記憶のように思える。これは夢か、いや、こんなにも自分の意識がはっきりとしている夢なんて今まで一度も見たことがない。
しかし、僕はあのマーリネイト嬢に恋文をもらって屋敷に招待され、彼女からの熱い抱擁と情熱的な告白を受けた。貧乏な農家が見た欲に満ちた淡い一夜の夢であったとしてもなんら不思議ではない非日常を、僕は味わい尽くしたのだ。
これが夢か現実かなんて議論は今更どうでもよい。結末がどうであれ僕に悔いはないのだから。
人で賑わう市場を避けるようにしながら僕は帰路に着いた。僕が今歩いているこの道は昼夜を通して閑散とした通りである。住民の興味関心を引くような店はなく、並ぶのは住居ばかり。盗人などの溜まり場になっているというわけでもないのだが、用心に用心を重ね、好んでこの道を通る人間はあまりいない。しかし、僕はこの道が市場の中心部から自分の家へ帰るための最短距離になることを偶然発見した。それ以来、僕は頻繁にこの道を歩くようになった。盗人や殺人鬼に出会ったことは一度もない。出会ってもせいぜいが、飲み過ぎで家から締め出された酔っ払いくらいだ。
市場の賑わいも遠くなり、僕の足音だけがこつこつと聞こえる。立ち並ぶ家からは夕食の香りが漂い始めていた。人通りは少なくとも営みは確かに存在している。そういう平穏な空気を味わうことができるから、僕はこの道が好きなのかもしれない。
「やいやいやい、ちょっと待たないか、そこのレドフィル君」
どこからともなく聞こえた若い男性の声に、僕は思わず足を止めた。周囲を見渡しても人の気配はなく、「誰だ」と叫んでも、返ってきたのは「ふっふっふ」と不敵な笑い声ばかり。それも複数人の声だ、最初に聞こえた声の男には仲間がいる。石畳を踏む足音と共に、その笑い声は徐々に徐々に僕の背後に迫ってきた。どうやら怯えてばかりではいられないらしい。
僕は素早く後ろへ振り向き、背後に迫る謎の人物をキッと鋭く睨みつけた。
振り向いた先にいたのは、僕と同じ年齢くらいの男性だった。暗い木の幹のような色をした髪の毛は、彼の全身から溢れ出る活発さを後押しするかのように短く爽やかに整えられている。飢えた野生動物を彷彿とさせる彼の顔つきと、口を開けた時に見える尖った犬歯が特徴的だ。また、彼の右頬にある傷痕は、本人曰く「愛する女を逃すために森で獣と戦った際に出来た名誉の傷痕」らしい。真実は誰も知らない。
肌はほどよく日に焼け健康的、日常的に鍛冶屋で行われる肉体労働の賜物とも言える彼の仕上がった体つきは、農作業で鍛えられているはずの僕ですら圧倒する。
僕は、彼を知っていた。彼の名前はブルードと言った。
なぜブルードがこんなことを、と驚き戸惑っていると、また「ふっふっふ」と、笑い声が通りに響いたかと思えば、ぞろぞろと家と家の間にある隙間から見覚えのある顔の男たちが現れ始めた。彼らは行手を阻むように僕の周りを囲んだ。僕はその囲いの中心で彼らの顔をおろおろと眺めることしかできなかった。
ブルードが僕の肩を叩いた。その叩き方はやや乱暴で、叩かれた瞬間に僕は「痛っ」と声を上げた。
「おうおうおう、俺たちぁたしかに聞いたぜレドフィル君。お前があのマーリネイトお嬢様の屋敷にお呼ばれしたってなぁ。しかも恋文までもらったって話じゃねぇか。羨ましいねぇ」
ブルードは、劇の舞台に上がった役者のような芝居がかった口調と動作を交えて、今日の僕の身に起こった出来事を語った。何が原因でそのことを知られてしまったのかは今は聞く余裕がない。
今度はまた別の男が、僕の服の裾をつまみながら喋り始めた。
「君にしちゃあ随分と小綺麗な格好をしているが、一言声をかけてくれりゃあ君のために、いや、あのマーリネイトお嬢様のために俺が服を作ってやってもよかったんだがなぁ。いやぁ惜しいことをしたなぁレドフィル君」
僕の服を品定めしながら語る男は、服職人の息子だった。名前はクローファン。鏡を見ることなく家を飛び出してきたのか金色の髪の毛はボサボサ。伸ばしっぱなしの前髪は眉毛どころか目も覆い隠していた。これで前がちゃんと見えているのだから不思議だ。
健康維持よりも服作りを優先した生活習慣を送っているせいか、クローファンの目の下は真っ黒で、不安になるくらい彼の体は痩せている。背筋はだらしなく曲がっており、ただでさえ亡霊のような彼の不気味さに拍車をかけている。真夜中にバッタリ出会いたくない人物として真っ先に挙げられるのがクローファンなのは言うまでもないが、彼が家の外を出歩くことはほとんどないためそこは安心してもらって構わない。
鍛治屋のブルードや服職人のクローファンと同じく、周りにいる全員がこの町の住民で、僕の友人であった。
「み、みんなどうしたんだ。なんかいつもと様子が変だぞ」
戸惑う僕の言葉に、皆が不満そうに「あぁん?」と威嚇してきた。一人や二人ならともかく、これだけ大勢の男たちに凄まれて動揺しない人間はいないだろう。
最初に動いたのはブルードだった。ブルードは僕の首にその逞しい腕を回し、逃げられないようがっちりと掴んだ。そしてもう一方の手で僕の頭頂部に拳をぐりぐりと擦り付けてきた。これがまぁなんとも言い難いくらいに痛いのだ。
「お前、これがいつも通りにしていられるか。俺たちのレドフィルが、あのマーリネイトお嬢様に恋文をもらったんだぞ。これを祝ってやらずして、なぁにが友達か。よぉし、今日はたらふく食って飲んで騒ぎまくるぞレドフィル、酒場の倉庫を空っぽにしてやる覚悟でな。そんでお前から惚気話を厭ってほど聴かせてもらう。よし行くぞ野郎ども!」
ブルードの勇ましい掛け声を合図に、僕を取り囲んでいた男たちが大きな歓声を上げた。
そうして僕はそのままブルードに拘束されたまま、賑やかな一団に混じって今歩いてきた道を引き返し、酒場まで歩かされる羽目になった。家に帰れるのはまだまだ先になりそうだ。いや、今夜中に帰れるのかすら怪しい。
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