鈴の音

 響いた鈴の音色がサヒレス園にはすぐに静寂が訪れた。口に運ぶ途中だった焼き菓子を手に持ったまま、僕はただただ呆然としていた。


 今の鈴はなんだ。


 マーリネイト嬢はその鈴を懐にしまい、つい先ほどの出来事が僕の見間違いだったとでも言うように、平然とした様子でお茶会に戻った。


「ネイトさん、今のは」


「あぁ、鈴のことですか? これは────いえ、見てもらえばすぐにわかると思いますよ?」


 僕は首を傾げて眉間に皺を寄せた。また答えをはぐらかされた上に、今度も何が何だかさっぱりわからない。だがその答えとやらは、しばらくすると向こうの方からやってきた。

 

「お呼びでしょうか、マーリネイトお嬢様」


「タミヤ、お茶のおかわりを少しだけもらえるかしら」


「かしこまりました。焼き菓子の方は、いかがいたしましょう」


「いえ、もうこれで十分よ。今日のお菓子もとっても美味しかったわ」


 サヒレス園にタミヤさんが現れた。マーリネイト嬢がその名前を呼んだわけではなく、ただ鈴を鳴らしただけで。この鈴の音を聞いてタミヤはここまできたのだろうか。いや、さっきの鈴の音は近くにいたからそれなりに大きな音に聞こえただけで、少し離れてしまえば周りの音にかき消されてしまう頼りない音だ。タミヤさんはたまたまこの場所の近くにいたのだろうか。


 僕の好奇心に満ちた視線に気づかないまま、タミヤさんはサヒレス園を出て屋敷の方へ戻っていった。


「タミヤはこの屋敷の使用人として特殊な訓練を受けていますから。彼は屋敷のどこにいても、この鈴が鳴れば私たちのところへ来てくれるのです」


 マーリネイト嬢は一度懐にしまった先ほどの鈴をまた取り出し、僕に見せてくれた。


 太陽の光を鈍ることなく反射する銀色の金属光沢をその鈴は持っていた。鈴は握れば手のひらの中にすっぽりと隠れてしまうほど小さく、肥えた球のような形をしていた。物の良し悪しはわからない僕にでも、その鈴が大層な額のお金をかけて作られたのであろうということはなんとなくでもわかった。鈴の頭の部分からは持ち手となる紐が伸びていた。濃淡の異なる紫色に染められた二本の紐が、互いの体にもう一方の紐を巻き付けながら一本の太い紐を作り、それ以外は考えられないほどマーリネイト嬢によく似合う色の組み合わせをしていた。


 特殊な訓練とやらの詳細も聞いてみたいところではあったが、マーリネイト嬢に「訓練のことは誰にも、たとえレドフィル様であっても教えることはできません」と回答を拒否されてしまった。


 何をどうすればあんな鈴の音だけを正確に聞き取れるようになるのかと思案していると、再びタミヤさんが紅茶のおかわりを持ってサヒレス園に戻ってきた。僕とマーリネイト嬢のカップにそれぞれ紅茶を注ぐと、軽くお辞儀をして屋敷の方へ戻っていった。


 去りゆくタミヤさんの足取りは老いを感じさせないしゃんとしたものだったが、老化が進むにつれて確実に聴覚は衰えてきているはずだ。それなのに、あの鈴の音色だけはどこにいても聞き取れるのかと思うと、やはり「特殊な訓練」とやらの実態が気になってしまう。


 「ところで」マーリネイト嬢が不意に口を開いた。僕は紅茶の入ったカップを口につけたまま、目だけをマーリネイト嬢の方に向けた。


「結婚式の予定はいつにしましょうか」


「ぶっ」


 突拍子もなくマーリネイト嬢が口にした「結婚式」と言う言葉に、僕は飲みかけの紅茶を口から吹き出してしまった。それでも冷静に顔をマーリネイト嬢の方から逸らせたのは我ながら見事な判断と行動であった。


 吹き出された紅茶がサヒレス園の芝生の上にこぼれ落ちたが、そんなことを気にする余裕もなく、嫌なむせ方をした僕はひたすらにゲホゲホと苦しそうに咳をするばかり。マーリネイト嬢が不安そうに僕のところまで駆け寄ってきて、甲斐甲斐しく僕の口元を清潔なハンカチで拭ってくれたり、背中をさすってくれたりしたのだが、僕がこうなった原因が彼女自身だということは忘れてほしくない。


 大きく息を吸って吐き出すとなんとか咳は止まった。動悸はいまだ激しさを保っていた。


「け、結婚式はいくらなんでも気が早いと言うか────その」


「レドフィル様は、私と結婚するのが嫌なのですか?」


「いやいや、そんなことはひとつも思ってないよ。もちろんすごく嬉しい。ただ、あまりにも話が急に進みすぎて、もっと他にやるべきことがあるのではないかと……」


 マーリネイト嬢は静かに首を傾げた。はて、他にやるべきこととは一体。本気でそう思っていそうな表情をしていた。

 

「普通はそういうものなのでしょうか」


「そういうもんだと思います。第一、僕らは今日初めて話をしたばかりの仲なんだから、もっとこうひとりの友人として仲を深め合ってから、交際とか結婚とかの話をした方が────」


 僕の提案にマーリネイト嬢は怪訝そうな顔をした。ここまではっきりと意見が分かれるのは、身分の差による価値観の違いが原因だろうか。だとすれば、そればっかりはどうしようもない。僕は貧乏な農家の生まれで、彼女は富豪の娘なのだから。


 そもそも、マーリネイト嬢の父親であるマルタポーさんの意見も考慮するべきだ。娘を溺愛する父親の気持ちを無下にして、当事者だけで結婚の話を勝手に進めることはできない。僕がマルタポーさんと同じ立場の人間であったなら、そんな真似は断じて許さない。許せるはずがない。


 マルタポーさんが僕たちの結婚を許可してくれれば僕も安心して結婚の話に賛同できる、というわけでもないが。


「ごめんなさい、私、今まで人を好きになるという感覚を経験したことがなくて……。だから、その、結婚はまだ早いだとか、もっと仲を深めてからだとか言われても、よくわからないんです」


 不安げな表情を浮かべながら、彼女は僕の口元を拭ったハンカチを強く握っていた。


 先ほどの「結婚式の予定」についての発言が、何もわからない彼女なりの精一杯の訴えであったのなら、その勇気は褒め称えるべきだものだと僕は思った。結婚についての話も、あの美しいマーリネイト嬢と結婚できることに僕は一つも不満はない。むしろ自分なんかでいいのかと聞き返したくなるくらいだ。だが、やはり僕らは知り合って間もない。もっとお互いのことを知り、確かな信頼と深い愛情を育んだ後にもう一度将来のことを考えるのが「普通」、言葉を変えるのなら、「最善」だと僕は思う。 


「とにかく、まずはこうやって一緒にお茶を飲みながらお話をしたり、たまに屋敷の外に出かけてみたり、そういうことから始めようか」


 マーリネイト嬢の手をとり、少しでも彼女の不安が紛れるよう優しく語りかける。


 心から僕の出した提案に納得したわけではなさそうな不満と、本当にこれでいいのかと自分に何度も問いかけているような心配の入り混じった悲観的な表情を一瞬だけ見せた後、彼女は僕から顔を逸らした。


 そして、目だけを僕の方に向けた彼女は、「それじゃあ、明日も屋敷に遊びに来てくれますか?」と僕を誘った。僕の答えはもちろん決まっている。


「もちろん」


 僕の答えを聞いてすぐに、先ほどまでの不安そうな表情はどこへ隠れたのやら、マーリネイト嬢は魅力に満ち溢れた可愛らしい笑顔を僕に向けた。それから明日のお茶会ではどこどこのお茶葉を用意しようだの、一緒に書斎で読書をするのも楽しそうだのと、僕一人では抱えきれないほどの提案を持ちかけられ、僕はただただ苦笑いを浮かべながら。彼女の楽しげな様子を見守ることしか出来なかった。


 こういう部分がマーリネイト嬢の魅力の一つではあるのだが、彼女に振り回されっぱなしにならないよう、時には僕も男らしく彼女の手を引いてあげなければと、カップに残った紅茶を飲み干しながら、僕は密かに決意を固めていた。

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