サヒレス園
マーリネイト嬢と過ごすお茶会は実に有意義な時間であった。この町の男であれば誰もが一度は夢見るマーリネイト嬢との二人きりの時間を僕は今、何の縁があってか味わうことができた。
僕らの会話は当たり障りのない雑談に始まり、徐々にお互いの素性に迫る話題へと変わっていった。生まれや両親のこと、どんな幼少期を過ごしてきたか、今日に至るまでにどんな災難に遭ったことがあるのか。どれも涙を誘うような暗い話ではなく、笑い話やお互いの理解を深めるためのものとして楽しんだ。
────お互いの緊張もほぐれた頃合いを見計らい、僕はついにあの話を切り出すことにした。
「ところで、マーリネイトさん。あなたにいくつか訊いてみたいことがあるのですが────」
マーリネイト嬢はすっと手を小さく上げ、僕の注意をそちらに集中させた。当然僕の口は話を続けることなくぼんやりと開けっぱなしのままとなり、視線は彼女の手のひらから顔へと移っていった。
「先ほどもお伝えしましたが、もっと崩した喋り方で平気ですよ。その方が安心します。それから、私のことは『ネイト』と呼んで頂いて構いません。私が思い慕うレドフィル様には、ぜひその名前で呼んでほしいのです」
「マーリネイト、だと何か都合が悪いことでも?」
「いえ、そういうわけではありません。これはすごく個人的な問題で、憧れや羨望、とも呼ぶべきでしょうか。ですからどうかお願いします」
名前を呼ばれることに対する憧れや羨望、とは。
なぜその名前で呼ばせたがるのかは気になる話題ではあるものの、今この場ですぐにでもはっきりとさせる必要のある話題ではなさそうだった。その理由はもっと僕らの仲が親密になった頃、あわよくば僕が恋人として彼女の隣に立つことが許された時に改めて知りたい。
僕は声の調子を整えるように咳払いをした。
「……なるほど。たしかに、話し方はこっちの方が楽でいいけど、名前の方は慣れるのに時間がかかりそうだね。じゃあ話を戻して、マーリネイトさ────」
「ネイト」
今度のマーリネイト嬢はやや強引に僕の話に割り込んできた。頬をぷくりと膨らませた可愛らしい不満の訴え方は、もう一度同じミスをしてやろうかという僕の悪戯心をくすぐってきたが、ここで調子に乗ってしまうのは得策ではない。いくら彼女に好意を持たれていることが明確であったとしてもだ。貧乏な農家でしかなかった僕がここにいられるのは、マーリネイト嬢が僕に抱く好意のおかげなのだから。彼女に嫌われてしまっては全てが台無しになる。
彼女の機嫌を損ねるような真似だけはしたくない。
「…………ネイト、さん」
というのは建前で、実際は女性との関係が薄く、こういった色恋沙汰と長い間無縁だった僕に、女性に対して親しげに話しかけることや名前を呼ぶことは極めて難易度の高いお願いだった。
やっとの思いで口にした言葉も、風が吹けばどこかに舞い飛んでいきそうなほどにか弱く、僕の自虐的思考に拍車をかけた。
僕に「美しい」と言われた時のマーリネイト嬢のように、「ネイト」と呼んだだけで僕の頬は一気に熱くなり、自分の目で確認することは叶わないが徐々に赤くなっているのであろうというのは、何となくの感覚ですぐにわかった。ほんの少し前に、マーリネイト嬢のことを初心な処女と確信したことを今になって後悔した。童貞の見栄っ張りほど恥ずかしいものはない。
どうやら僕の声はちゃんとマーリネイト嬢の耳にまで届いていたらしく、彼女は満足げに「よろしい」と呟いた。
「それで、訊いてみたいことというのは? お答えできる範囲のものであればなんでも」
話が戻ったところで、僕は体をやや前のめりにしながら本題に入った。
「……どうやって、僕に手紙を出したのかな? 僕は一度もマーリネ──失礼、ネイトさんと直接会ったことはない。僕が一方的にあなたのことを遠くから眺めていただけ。僕の顔と名前、それから住んでいる場所。どれもあなたが知っているはずがない情報ばかりだ。だから教えてほしい。君はどうやって、僕のことを知ったのかな」
僕の質問を聞いてマーリネイト嬢は一口紅茶を飲んだ後、カップをテーブルの上に置き、手を膝の上に戻した。姿勢は依然として凛々しさを保っており、僕のことを見つめる目には刃物のような鋭さが混ざっていた。種明かしは自分で、と言っていたはずの彼女が、なぜかその理由を打ち明けることを拒んでいるかのような暗い気配が一瞬だけ顔を見せた。
その気配を覆い隠すように彼女はニコリと微笑み、口を開いた。
「その質問の答えと、レドフィル様はもうすでにお会いしているはずですよ? 仕事の都合上、町の人間の名前と顔、どこに住んでいるのかをきっちりと覚えなければいけない人間と」
「……あの配達人を、利用したのか」
「利用、と言うと少し聞こえが悪く感じますね。私は、町で見かけた『とある青年の特徴』を事細かに父に伝え、その人物を探してほしいとお願いしただけです。ですからこの場合は『臨時雇用』といったとことでしょうか。彼はこの依頼を快く引き受けてくれましたよ?」
なるほどな、と僕は静かに呟き、椅子の背もたれに体を大きく預け、腕を組み、空を見上げた。あの手紙がいかなる経緯を以て今朝僕のところまで届けられたのかを色々と空想するためである。始まりは僕に会いたいというマーリネイト嬢のお願い。それが紆余曲折を経て、あの郵便配達人は僕の家までマーリネイト嬢の手紙を届けにきたのか。
「彼、手紙を渡す時随分と緊張していたけど、脅しなどはしていないだろうね」
「もちろんです」マーリネイト嬢ははっきりと返事をした。「脅しの必要なんてないくらい順調に事が進みましたもの」
その言葉に嘘は含まれていないようだった。僕は緊張の念と共に息をふぅと吐き出した。
他にも色々と訊きたいことはあるのだが、ひとまずはそれが聞けただけでも満足だ。他に訊きたいことがあるとすれば、どうして僕のことをすいてくれているのか、とか。何がきっかけで僕のことを好きになったのか、とか。
二人が交際を始めた後の予定や、結婚した後にどんな暮らしをしたいか、子どもは何人、性別は男女のどちらがいいか────。
そこまで考え始めたあたりで、僕は邪な気持ちを追い出すように頭を振った。あぁ、ダメだダメだ。それ以上を考えるだなんてまだ気が早すぎる。そんな僕を不思議そうに眺めていたマーリネイト嬢には「なんでもないよ」と言って笑顔を見せた。
僕らはまだ知り合って間もない関係だ。より親密に、恋人同士として互いの将来を見据えるのにはまだ早い。だから、今はまだこれでいい。もっとこれからじっくりと仲を深め合い、僕らの間に確かな信頼と愛情が生まれてから、あれこれ考えよう。
「そういえば、君のお父さん、マルタポーさんは今どこに? せっかくだから挨拶くらいしておいた方がいいと思ったんだけど」
「父は今仕事で屋敷を留守にしています。今朝、私の手紙と配達人への報酬を持って仕事に出かける際、『帰りが遅くなるかもしれない』と言っていましたが、夜には帰ってきているかと……」
やはり富豪としての財産を築き、守り抜くためには仕事は蔑ろに出来ないのだろう。マルタポー氏と言葉を交わし、彼の趣味について少しでも話ができればと思ったのだが、日を改めるとしよう。出世の可能性は低くとも、農作業の楽しみを分かち合える友が出来れば僕は十分だ。
すっかり舌に馴染んだ紅茶を味わい、だいぶお皿の上から姿を消した焼き菓子の最後のひとつ手に取ろうとして、同じことを考えていたマーリネイト嬢の指と僕の指の先がちょんと触れ合った。
僕らはすでにお互いの体の感触を抱きしめあった関係だというのに、なぜか「指先が触れた」という、抱擁に比べれば随分些細な接触に不思議なくらい動揺した。僕はとっさ「あぁごめん!」と謝って、マーリネイト嬢は素早く手を膝の上に戻してまた頬をほんのりと赤くした。
気まずい沈黙がサヒレス園を包んだ。
その沈黙の中で僕は臆せず動いた。焼き菓子を手に取りそれを半分に分け、片方をマーリネイト嬢の前に差し出した。
「半分こです。それから、紅茶のおかわりを少しだけ」
差し出された焼き菓子の半分を受け取ったマーリネイト嬢は、ほんの少しだけの間、その焼き菓子をじっと見つめた後にふふっと柔らかく笑った。
「私、こういうの憧れだったんです」
マーリネイト嬢は懐から何やら小さな鈴のようなものを取り出し、それを軽く揺らした。
サヒレス園に、しゃらんしゃらんと涼しげな鈴の音色がこだました。
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