マーリネイト嬢

 絵画のマーリネイト嬢に見つめられていると、僕らのいる屋敷の広間の方へ駆け寄ってくる足音が聞こえた。音の出所を探すように、広間の左手側にある二階へと続く階段に僕は視線を移した。その階段の中腹に、彼女はいた。


 目が合った。


「レドフィル様!」


 いったいどこでどう彼女が僕のことを知ったのかはいまだ不明だが、僕の名前を呼んだその美女がマーリネイト嬢だとはすぐにわかった。


 彼女は弾けるような笑顔を僕に向けると、踏面から足を踏み外してしまうのではないのかと思うほど慌ただしく、ワンピースの裾を持ち上げながら階段を再び下り始めた。彼女の服装は絵画の女性とそっくりだった。いくら動きやすい服装とはいえ、次の瞬間に起こるのではないかという悲劇に肝を冷やし続けた。僕の隣にいる執事も、気が気でなかっただろう。


 何事もなく階段を下りきった彼女は、迷うことなく僕の方へ駆け寄ってきて、その握れば折れてしまいそうな華奢な両腕を大きく広げ、僕に飛びついた。僕の体を抱くその力は想像していた以上に強く、無理やり振り解くのは困難に感じた。マーリネイト嬢からの熱い抱擁を振り解く必要はどこにもなさそうだが、その締め付けるような力とは裏腹に僕の体に押し当てられる彼女の体は柔らかく、優しさと凶悪さを兼ね備えた彼女の肉体に、やはり僕は恐怖を覚えた。


 青空の向こうへ飛び立つことよりも憧れたあの少女の顔が僕の頬のすぐ横にある。しかしいきなりこんなことをしてもよいのかと、半ば救いを求めるように執事の方を見ると、彼はほんの一瞬気まずそうな表情を僕に向けた後、わざとらしく明後日の方を向いた。つまりそれは、彼女の抱擁を受け入れてもよいという合図なのだと理解したが、僕の首に腕を回すマーリネイト嬢の腰に、僕の手を添えるのは憚られた。

 

「ずっとあなたにお会いしたかった────」


 彼女の愛らしい囁き声が僕の耳をくすぐった。鳥肌が立つほどに美しい彼女の声は僕の内側に眠る雄を呼び起こすほど官能的だった。僕と同じか、一か二年の誤差がある程度の年齢の淑女の口から出てくるにはふさわしくないほど。

  

「タミヤ、すぐにお茶の準備をしてくれるかしら。レドフィル様と二人きりでお茶会がしたいの」

「かしこまりました。すぐに用意致します」


 この執事はどうやらタミヤという名前らしい。タミヤは抱き合ったままの僕たちに軽くお辞儀をした後、広間からどこか別の部屋に移動していった。その去りゆく背中を二人で見届けた後、マーリネイト嬢はやっと僕から体を、お互いの顔を真正面から見られる程度に、ほんの少しだけ離した。


 彼女の顔を直視することが出来ず、目玉をうろちょろとさせながら、ぎこちない笑みを浮かべることが僕の精一杯の努力であった。マーリネイト嬢はそんな僕の反応をまるで愛らしいとでも言いただけな優しい笑みを浮かべた後、僕の胸板にそっと手を這わせた。


「お庭にお茶会にぴったりの場所があるんです。今日はとってもお天気が良いみたいですし、いかがです?」


「あ、えっと、そうですね。そうましょうか、うん、それがいいと思います」


「フフフ、そんなに緊張なさらないでくださいレドフィル様。私だって、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうなのをずっと我慢しているんですから」


「そう言われましてもですね……。僕だってひとりの男ですし、マーリネイトさんの美しさを前にしてしまうと、嫌でも緊張してしまいます。ですからどうかご容赦を────」


「まぁ! そんな、『美しい』だなんて……!」


 色白の頬がぽっと赤く染まった。さっと僕の体から離れ、火照りの熱を確かめるように両手を頬に当て、もじもじと身を揺するマーリネイト嬢を見て、僕は彼女がいかに美しい女性であっても、中身はやはり恋愛事に関する知識と経験の薄い、異性に褒められただけで頬を染めるような、可愛らしい初心な少女なのだと確信した。その確信が、僕の緊張をいくらか解し、マーリネイト嬢についてもっと詳しく知りたいと思わせる良いキッカケとなった。


 火照りの冷めたマーリネイト嬢に手を引かれ、僕が連れて行かれた「庭にあるお茶会にピッタリの場所」とやらは、屋敷の正面から見えたあの生垣の裏側にあった。地面はよく手入れされた芝生で、四方を背の高い生垣に囲まれたこの空間は、庭の中とは思えないほど静けさに満ち溢れていた。もちろん鳥の鳴き声や、町の人の声が遠くの方から聞こえてはくるのだが、雑音よりも沈黙がこの空間の中では優っていた。


 屋敷の主人マルタポーは、このこじんまりとした場所を「サヒレス園」と呼んでい

るとマーリネイト嬢が教えてくれた。サヒレス、というのは古い言葉で「静かなもの」を意味していることも教えてもらい、その名前はまさしくこの場所を表すのにふさわしい名前であると僕は思った。


 サヒレス園への入口は、アーチ状になった生垣がわかりやすい目印になっていた。そのアーチをくぐると、空間の中央には木製のテーブルがひとつ、同じく木製の椅子四つほど置かれ、日除けのために設置された大型の傘が、憩いの場に日影を作っていた。


 家の畑の緑に囲まれるのとはまた別の空気感、土より花の香りが際立つサヒレスの園に見惚れていると、不意にマーリネイト嬢に声をかけられた。


「レドフィル様。こちらにどうぞおかけになって」


 彼女自らが僕のために椅子を引いてくれたことに申し訳なさを覚えた。いそいそと椅子に座ると、彼女は机を挟んで僕と向き合う形になる場所の椅子に座った。マーリネイト嬢の座る動作や座った時の姿勢、手や足先の細かな部分にまで行き届いた上品さは、僕との身分との違いをまた明確にした。彼女を真似て僕も背筋を伸ばして座ってみたりするのだが、無理をしていることを彼女に悟られると、「楽にしてもらって構いませんよ」と微笑まれた。ぐにゃりと曲がった背中の形は、僕の体によく馴染んだ。


「すみません。実は、あまりちゃんとした教育を受けたことがないので、こういった機会とは全く縁がなくて……。相手に失礼のない言葉遣いや、お茶会の作法なんかもさっぱりでして」


 僕は恥ずかしさと情けなさで心を満たし、気持ちを誤魔化すように頬を指で掻いた。


「気にしないでください。むしろ、かしこまった喋り方をされると、レドフィル様との心の距離がまだまだ開いているような感じがして、『嫌われてしまったのでは』と不安になってしまうのです。ですから、礼儀作法や言葉遣いにはあまり気を遣わず、気楽にお過ごしください。ねぇ、あなたもそう思うでしょう? タミヤ」


「全くその通りでございますな」


 マーリネイト嬢がその名前を呼んだ瞬間に、都合よくタミヤがサヒレス園に現れた。

 

 「礼儀作法や言葉遣い、それから昔話。若者たちに色々と教えたくなるのが年寄りの性というものですが、レドフィル様にそのような真似をするつもりは一切ございません。マーリネイトお嬢様の大切なお客様に対してあれこれと指摘する方が無礼になってしまいますから。ただ、ひとつだけお願い申し上げるとするならば、ぜひ、マーリネイトお嬢様とのお時間を心ゆくまで楽しんでいただければなと。私からの教えはそれだけです」


 お茶会の準備を手慣れた様子で進めるタミヤは、穏やかな笑みを浮かべながら言った。


 テーブルの上に置かれた白いお皿の上には焼菓子が乗せられていた。白い湯気と共に芳醇な香りを園内に漂わせる紅茶の入ったカップが僕の前に置かれた。安物の紅茶しか味わったことのない僕にその香りはやや刺激的なものに感じ、紅茶に限らず高級品は庶民の感覚には許容し難いものがあるのだと実感した。この紅茶も、嫌な匂いというわけでは決してないのだが、香りに慣れるのには少々時間が必要そうだった。


「ありがとうタミヤ。お茶のおかわりが欲しくなったらまた呼びますね」


 タミヤはお辞儀をした後、また屋敷の方へと戻っていった。自分の礼儀知らずが許されることにホッと胸を撫で下ろした僕はカップを手に取り、刺激の強い香りを放つ紅茶をおどおどと口に含んだ。


 匂いのわりには、という感想を残しておこう。慣れを要する味には違いないが、嫌いじゃない。

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