『夕凪の姫』
富豪の屋敷は町の北東部にあり、噂に聞いていた通り鮮やかな花たちに囲まれていた。
屋敷の両側と背後を守っているのは、背の高い壁。足場や足をかけられそうな窪みがあれば登れなくもなさそうだったが、この屋敷に忍び込んだところで侵入者のその後は明確だ。屋敷の正面側は金属製の鉄格子が立ち並び、その隙間から屋敷の庭が見渡せた。屋敷を中心とした四角の敷地のほとんどが農園となっており、十字に敷かれた広い石畳がその農園を区分けしていた。
屋敷の玄関に向かって伸びる石畳の右手側にある農園には、季節に合わせた品種の花が自由気ままにその花弁を開かせていた。左手側にある農園には花ではなく野菜の苗が植えられていた。これもまた力強く蔓を伸ばし、中には熟しきっていない青い実が顔を覗かせていた。
その景色は屋敷の真正面にある格子門の前に立つとより一層壮観なものとなる。両手の指では足りないほどの品種と色に満ちた花の彩は、屋敷の外壁の純白を受け、その確かな存在感を僕の視覚に強く訴えかけてくる。僕の髪を揺らす風には至極当然のように花の香りが混じっていた。
奥に見える農園も同じく花や野菜の苗が植えられた畑のようだったが、ここからでは遠くてよく見えない。特に右手側奥の庭は背の高い生垣が植えられており、なおさらその向こう側に何があるのかが気になった。庭を散歩する機会をもらえたのなら、向こう側もぜひ探検してみたいものだ。
農園の管理や維持自体は使用人に任せているのかもしれないが、この農園はやはりこの屋敷の主人、あの富豪の手によって作られたものだろう。単に彼は園芸が好きなのか、それとも、彼の飽くなき食への探究心が生む「理想の野菜がなければ自分で作ってしまえ」という富豪らしい財産の使い道か。
その理由は定かではないが、自身の財産を農園のために惜しみなく注ぎ込むあたり、彼の自然への信仰心や愛情深さ、趣味の園芸への没頭具合は本物だろう。
しかし、その庭を手入れする者や門の警備を行っている者の姿が見当たらず、僕は考えあぐねてしまった。門の前で数歩右に歩いては、その分左へ歩いて下の位置に戻ってくるなど、不審極まりない動きを繰り返していた。もしかすると、手紙の中に何か暗号が隠されているのではないかと、懐にしまっていた封筒を取り出し手紙の一文一文を読み返した。だが、秘められている──かもしれない──暗号を解き明かすべく一文を頭の中で何度も復唱する度に、僕は性懲りも無く胸をときめかせるのだった。
ほんのしばらくそうしていると、屋敷の両開きになっている玄関扉の片方が開き、そこから堅苦しい衣服を着た年老いた男性が現れたのを見つけた。男性は僕の顔を見るや否や駆け足気味で僕の方に近寄ってくると、僕を屋敷への侵入者や盗人だとは到底思ってもいないような穏やかな語り口で、格子門の向こう側にいる僕に声をかけた。
「レドフィル様ですね。お待ちしておりました。すぐに門を開けます」
その男性の身なりや丁寧な仕草から察するに、彼はこの屋敷に仕えている執事だろう。彼は言葉通りすぐに門を開け、僕を屋敷の敷地内へと招き入れた。道の先を行く執事の数歩後ろをついて歩きながら僕は、気にしないふりをしていた疑問を執事に尋ねてみた。
「あの、マーリネイト嬢はどうやって僕の家の場所や名前を知ったのでしょう。僕が彼女と話をしたことは一度もありません。なのにどうやって」
「それは、マーリネイトお嬢様から直接お聞きください。『種明かしは自分でしたい』というマーリネイトお嬢様からのご要望でもありますので、私がその質問に答えることは出来ません」
朗らかに答えた執事は、屋敷の玄関の前に立ち扉を開けた。内装を扉の隙間から目にした瞬間、やはり自分とは住んでいる環境がまるで違う、園芸を通じて僕にもあの富豪と親密な仲を築き上げ、大きく出世することも夢ではないなと思っていた自分が、いかに浅慮な思考に陥っていたのか痛感した。
本当に入ってもよいのか、という僕の不安げな目配せに気づいた執事は「どうぞ」と微笑みながら、手のひらを上に向け玄関の向こう側へと指先を向けた。そうは言われても、今すぐにでも踵を返したい気持ちではあったが、マーリネイト嬢の好意を無下にするような行為の方が、臆病な僕には出来なかった。
建物の中に入ると、今まで目にしたこともない完成した芸術品のような内装、壁にかけられた絵画や専用の台座に鎮座する骨董品たちに目を奪われた。どれも僕の無知を証明するだけの品物でしかなかったが、並ぶ芸術品を前にした時のあの形容し難い感情の動きは、僕に多少なりとも芸術に対する理解や興味があるという何よりの証拠だった。
その感情の動きが一際大きかったのがとある油絵だった。玄関扉を越えて真正面に見える壁にかけられた豪華な額縁の中に、その油絵は収められていた。
太陽が水平線の間に半分ほど姿を隠し、昼と夜の色が入り混じる夕焼け空を背景に、そのお淑やかな女性は、その景色を一望できる小高い崖の際に立ってこちらを見ていた。絵画の女性の姿は、あのマーリネイト嬢を彷彿とさせ、彼女の象徴とも呼ぶべき黒髪は夕暮れ時の潮風に揺られているような躍動感があった。彼女は小さな頭を上に乗せたつばの広い真っ白な帽子とワンピースの長い裾を手で押さえながら、どこか悲しさや寂しさを孕んだ視線をこちらに送っていた。
現実離れした風景、揺れる髪の躍動感、彼女の物憂げな視線。それら全てが重なり合い、ただの鑑賞者だったはずの僕を絵画の世界へと迷い込ませた。僕に何かを求めるような視線を送る彼女に、「そんな場所に立っては危ないよ」と手を差し伸べながら声をかけてしまいたくなる、そういう絵画だった。
「『夕凪の姫』。この屋敷の主人マルタポー様が、当時はまだ無名だった画家を雇い、『自分の娘の絵を描け』と依頼したことがきっかけで生まれた素晴らしい作品です。この作品の出来上がりを非常に気に入ったマルタポー様は、予定されていた倍の金額を画家に支払い、屋敷に入ってすぐに見えるこの場所に飾りました」
何も聞いていないのに執事はこの絵の説明をしてくれた。おそらく客人をこの屋敷に招き入れるたびに、こうして説明をしているのだろう。何十、何百と繰り返されているはずの彼の語りは決して淡白なものではなく、彼自身もこの絵のことをとても気に入っているのであろうという、なんとも嬉しそうな口調であった。
「あの絵に描かれている女性はつまるところ、マーリネイト嬢ご本人ということですか」
「その通りです。しかし、実際にマーリネイトお嬢様がこの夕焼けを一望できる場所に立ったわけではございません。全てはこの絵を描いた画家の空想です」
「それにしては随分と完成度が高いような気がしますね。画家の想像だけで描いたと聞かされても、その方が嘘に聞こえてしまうくらいです」
「ハッハッハ、そう思われてしまっても仕方がありませんな。この屋敷を訪ね、レドフィル様と同じように私の説明を聞かれた方のほとんどが、そうおっしゃっておりましたから。しかし、マルタポー様やマーリネイトお嬢様も、確かにその目で画家が独り部屋の中で、寝食を忘れ、黙々と筆を走らせている姿を見たのですから間違いございません。
あの画家曰く、マーリネイトお嬢様を一目見た瞬間に全てが思い浮かんだそうです。何も見ずとも、何も聞かずとも、画家は空想の赴くままにこの絵を描きあげました。それでこれだけ立派な絵を描けるのですから、彼の絵の才能には少しばかり恐怖を覚えましたね」
マーリネイト嬢の姿を町で何度か目にしている分、画家の気持ちはなんとなくわかる気がした。彼女の美しさはなんとも不思議極まりないものであった。この執事が画家の才能を恐れるのと同じように、人間ひとりの人生を容易く変えてしまう彼女の美貌は、本来畏怖の対象であるべきなのかもしれない。
あれだけ心待ちにしていたはずのマーリネイト嬢との対面が、手の震えを隠しきれないほど恐ろしいものに感じ始めた。
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