不思議なお嬢様
柳路 ロモン
第一章
はじまり
僕を非日常へと引き摺り込んだのは、一通の手紙がきっかけだった。
その手紙を書いたのは、町ではかなり有名な富豪の娘だった。その富豪は、金持ちであるからといって威張り散らすようなこともなく、困っている人間がいれば、たとえそれが偽善者の行いだと指を差されようとも気にせず、すぐにでも手を差し伸べに行くようなお人好しの富豪であったと僕は記憶している。
あの愛嬌のあるまんまるな顔にぴったりの大きな鼻の下にはちょこんと黒い髭が生え、町一番の服飾人に金を渡して作らせた大きな服に身を包み、両手に町人から頂いたであろうパンやら野菜の入った袋やらを抱えて、にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべながら町を散歩している彼の姿をよく見かけた。
彼の日課の散歩には時折、美しい少女が付き添っていた。肩に少しかかるくらいの艶のある黒髪に、色気のある涼しげな目。ぷっくりと柔らかそうな薄紅色の唇。無駄な肉のない華奢な体つきは富豪とは対称的でなお印象的だった。
僕がその少女があの富豪の娘であると知った時は、失礼ながらも「母親に似たんだな」という感想を胸の奥に残した。
その少女を一目見たときに僕が感じたのは、恋心ではなく、僕自身に対する無力感であった。自分のような貧乏な農家に生まれた男には、あのような美人は決して振り向いてはくれないだろう。いつか彼女の隣には彼女の身分にふさわしい男が立つに違いない。きっとその方が良いに決まっている。
自分が彼女の隣に立つことを妄想することすら僕には出来なかった。あのような可憐で儚げな処女──本当にそうなのかは知らないが──に対し卑猥な妄想を一瞬でも膨らませようものなら、僕は川に身を投げてやろうという衝動に駆られたものだ。
だからこそこの手紙は。僕を非日常へと引き摺り込むには十分すぎるほどの役目を果たした。
今朝方、町で唯一人の手紙配達人の若い男性が僕の家を訪ね、目に見えて緊張した様子で一枚の手紙を僕に手渡した。その紙の質感は、物の良し悪しがはっきりとしない僕にもわかるほどに上質な紙だった。
早速中身を確認しようと封蝋を剥がし取ろうとした僕を配達人は強引に止めた。
「手紙の差出人であるマーリネイト様から、中身は誰にも見せないようにと指示がありましたので」
僕は配達人が口にした「マーリネイト」という人物の名前には心当たりがあった。だから僕はその奇妙な指示に従うことを決めた。辺りを見渡した後、配達人に軽く頭を下げて逃げ隠れる泥棒のように僕は家の中に戻った。「人目を避ける」という目的はこれで既に達成されたも同然だったが、それでも僕は用心に用心を重ね、部屋の角に身を小さくして座り込み、そこでようやく封筒を開けた。
花の甘い香りが染み付いた手紙は、この一文から始まっていた。
「
この衝撃的な一文を読み終えた時、僕は真っ先に宛名を確認した。「レドフィル」という名前は確かに僕の名前だが、町一番、いや、国一番、いや、大陸一番と言っても過言ではないほどの美しさを持つあの少女が、僕に手紙を出したとは到底信じられなかったのだ。
僕ではない、どこか別の場所にいるレドフィルに宛てられた手紙なのだと僕は思い込み宛名を確認した。しかし封筒に宛名や住所はなかった。そうなるとこの手紙は、そこであの富豪の娘が直々にあの郵便配達人を直接屋敷に呼び出し、僕の家の住所と名前を指定し届けさせたものということになる。それが事実なのであれば、あの配達人の緊張の具合も理解できる。
彼女がどうやって僕の名前や住所を知ったのかはこの際どうでもよかった。あの少女が書いた僕宛ての手紙が、今僕の手の中にある。その事実を飲み込むのにかなりの時間を要してしまった。
高鳴る心臓の鼓動を無視して、僕は再び手紙の文面に目を落とした。
「
(中略)
あなたと
この
マーリネイト」
僕への激しい恋慕を語り尽くした真っ白な紙の右端には、彼女のものと思われる唇の形をした赤い印が残されていた。僕はその印を人差し指でなぞった。すぐにでもその指の腹を自分の唇に押し当てたい、印に直接自分の唇を押し当てたいという欲求に支配されたが踏みとどまった。その抵抗は「なぜ自分なんかに恋をしたんだ」という彼女に対する不信感や、穢れを知らない淑女を守りたいという紳士的な配慮による賜物であった。
回数を数えるのも煩わしいほど深い呼吸を繰り返すと冷静さを少しばかりは取り戻せた。そして、僕はこの手紙が本当に彼女から届けられたものなのかを確かめに行こうと考えた。
今すぐ彼女の屋敷を訪ね、庭の手入れや屋敷の見張りをしている人間にでも訊けば何かわかるだろう。もしそこで追い出されたとしても、この手紙は誰かの質の悪い悪戯だと判明する。この悪戯を計画した犯人を追求してやろうという気持ちはなかった。
貧乏な家の生まれに出来る最大限で身だしなみを整え、僕は家を出た。その足取りは軽く、浮かれているようにも見えるだろう。「誰かの悪戯なのでは」という疑問が頭の中にあったとしても、やはり僕の妄想は自分の都合の良い方へと膨らみ続ける。
際限なく膨らみ続ける妄想がひとつの着地点を見つけたところで、男というのはどんな時も単純なものだなと僕は自虐的な笑みを浮かべた。
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