epilogue 『おかえり』の挨拶
「ただいまー。私、です」
玄関口の方から聞き覚えのある声が聞こえてきて、僕はコンロの火を止め、玄関に向かう。
「帰って、きました。えっと、ただいまー!」
聞き馴染んだ声。けれど今はまだ、少々の照れが交じる声。
エプロンをかけたまま玄関の鍵を開けると、声と同じように、照れたようにじっと佇む彼女の姿があった。
僕も声をかける。帰ってきた者が言う『ただいま』という挨拶に応えるための言葉を。
それはたった4文字の言葉。だけど照れがあり、うまく口が動かない。
きっとこれから彼女と過ごす時間で、だんだん慣れていくと思う。
彼女の荷物を受け取ってやりながら、少し前までの関係を思い出す。
当時は大きなスポーツバッグに、泊まるための着替えなどを詰め込んで来訪していた。
彼女はいつも、小さい体躯で大きな荷物を抱えていた。
今は小さなディバッグを背負っている。
小柄な彼女らしい、無理のないサイズだった。
彼女を部屋に招き入れると、彼女がもたれかかるように寄り添ってくる。
並んでリビングに向かう最中に、何でもない言葉を交わす。
「今日も、色々なことがあった。聞いてほしいな。お料理してる時とか、ご飯食べてる時、おふとんの中でとか」
僕は大いに頷いてやる。なにせ時間はたっぷりとある。
今日の仕事を終え、彼女は疲れているだろうに、さも楽しげに笑う。
「えへへ。ベッドが広くて、二人で寝てても、いっぱいお話したり、寝がえりうったり、うーーんって伸びしたり、いっぱい、いっぱい抱き合ったり出来て楽しいな」
別に周囲に人目はないが、僕はこっそりと頷いてやる。
高校生だった頃、屋上で二人切りの約束を交わした時のように。
確かに今は、いっぱい抱き合うのに都合の良い環境ではあった。
それこそ大きな荷物を抱えていた頃のように、時間に追われることもなく、ゆっくりと二人のペースで、ずっと。
楽しげに一日のことを話す彼女の話を聞くに連れ、愛しさがこみ上げる。
その気持を僕は、率直に伝える。
相変わらず僕は、自分の気持ちをまっすぐ伝えるやり方しか知らないのだ。
「へ、え? 好き? 離れないで欲しい? もちろんだよ。私はもう、キミのところに帰ってきたんだから。私の還るべきところは、キミの隣なんだから」
そう答える彼女に、自分自身の先行きに悩んでいた時のような憂いはない。
元来は引っ込み思案だけど、そんな自分を諦めず、自分らしい強さを獲得していた。
──『アイドル』という稼業にひと段落をつけた彼女。
今はまた異なる形で、大勢の人に歌を届け、彼女らしく活動している。
そんな彼女と二人、今はひとつの部屋で一緒に暮らしている。
高校の頃は、同じ性質をもつ幼馴染として。
それから別の道を歩んでからは、距離は遠くても、こころはひとつで。
そして今は、距離も気持ちも一番近い、最愛の恋人として。
だから僕は、彼女が帰ってきた時に、声をかける。
こんばんは、というかつての挨拶ではない。
彼女が還ってくる場所としてのふさわしい挨拶を。
『おかえり』の挨拶 <完>
『おかえり』の挨拶 佐原 @tkynzt
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