Scene 4 二人の過去とふたつの今
夕飯を終え、夜も更けつつある頃合の時間帯。
雨の音に包まれ、リビングの二人がけのソファに、二人で肩を並べ座る。
いわゆる僕らの関係は、幼馴染という関わりから始まっている。
性差のない幼い頃は、同じ目線で。
性差が生じる頃には、それぞれの目線で。
幼馴染という名の友達、という関係を築いてきた。
それが終わり、新しい関係を始めたのは、高校生の頃のことだった。
リビングには、ネット回線経由で動画再生もできる壁掛けテレビがある。
料理を食べながら楽しく語らった時間と、部屋の照明を落としてベッドの中で横になる時間。
その間のなんでもない無為の時間を、僕らは自然と欲していた。
ソファで肩を並べ、自動再生の動画を見続けているのはそのためだ。
動画は僕の視聴履歴などを参考に、自動再生を続けている。
「あ、この人は知ってる。私も好き」
ある動画が終わり、次の動画再生された時、彼女が少し身を乗り出す。
それはある二人の女性アイドルが、配信の企画で飲んだり食べたりする趣旨の動画だった。
長尺の配信全体のアーカイブではなく、見どころを切り抜いた動画だ。
一人が瓶ビールをラッパ飲みして、もう一人を驚かせている。
歌い踊るのが本業だが、バラエティ的な仕事もやるのが現代的だった。
「もしかしてキミも、この人たちが好きなの?」
真意の読めない淡々とした口調で彼女が聞き、内心で返答に窮する。
字幕で表示されている名前は、見覚えのある名前だった。
いわゆる彼女とは同業者の類。彼女以外のアイドルを敵視はしないが、せいぜい名前しか知らない存在だ。
嫌いではないけど、好きでもない。
正直にそう伝えると、彼女はニコリと笑った。
「今はアイドルがいっぱいいるから。目に写る分には仕方ないと割り切るけど、キミにだけは、私だけを見て欲しいの」
口調は淡々とし、どこか逼迫したような声色。
ソファの隣に座る彼女が、視界を遮るように僕の正面にやって来た。
僕を木に見立て、幹にしがみつくコアラのような格好だ。
僕の大腿部の上に彼女がまたがると、顔半分くらいだけ、高い目線の彼女と向き合う形となる。
彼女の心地よい重みが伝わってくる。態勢を崩さないよう、彼女の腰の辺りに手を添えた。
物理的に遮られ、画面上のアイドルは見えない。
ほんの目の前にある彼女の口元から、震えるような吐息が伝わる。
「それがキミをつらくすることは知ってるのに、私はそう望んでいる。だから、せめて、私に出来ることは何だってしてあげたい」
目の前で、彼女の口から、彼女の本心が語られていく。
「私が一番したいこと。それは、キミのつらさが癒えるまでキミのそばにいるために、私はキミに会いに来てる」
目の前の彼女の両手が、植物が蔦を伸ばすように、僕の首にからみつき、するりと首筋を通り抜け、背を撫でていく。
より近くなった彼女の瞳を見つめるに連れ、こんな風に始めて見つめ合った時──高校二年生の屋上でのことを、僕は思い出していた。
「ねえ。これはどうか、笑わないで聞いて欲しいの」
そう前置いて彼女が切り出したのは、ある日の放課後の屋上で、並ん手すりにもたれていた時のことだ。
隣を見ると、暮れ時の夕日が彼女の横顔を赤く照らしている。
秋の風が吹きつけ、頬を隠すような長髪を、さらさらと揺らしていった。
不意に彼女がこちらを向く。夕日が彼女の顔の輪郭を際立たせる。
昔から綺麗な子だったが、今の彼女は特に。
「私には夢があるの。目標といってもいいかも知れない」
僕は目をそらさずに頷く。
逸らせなかった、と言ってもいい。
僕らはどちらかといえば、二人とも自分から話すタイプではない。
幼い頃から、周囲の空気に合わせ、波風を立てないように生きてきた。
僕も、そして彼女も、そんな自分たちの性質を、決して好ましいとは思っていなかった。少なくとも僕は。
けど今の彼女は、あえて波を立てている──そんな感じだった。
彼女は猫みたいに近づいてくると、肩と肩をするりと密着させた。
屋上には僕らしかいない。周囲を憚る必要はないが、心は高ぶる。
いつもより少し早い、彼女の息遣いが伝わってくる。
「今から話すことは、キミ以外の誰にも聞かせたくないの。だから今だけ、お願い。ね?」
隣りにいる彼女の息遣いのみならず、身じろいだ時の衣擦れや、風に揺れる髪の流れる音まで、間近で伝わってくる。
僕達は仲の良い幼馴染だが、恋人同士ではない。
いわゆる恋心と呼ばれるものを、僕は心には潜めていたが、それを露呈させると、僕ららしい関係性を失わせそうで、内に秘めていた。
SNS上に溢れる情報の奔流や、親兄弟たちからの一方的な期待や要求。
クラスメイト達の集団意識と、上辺だけ個性を尊重する学校の画一的な方針。
それらに僕らは迎合できず、誰とも何も共有できなかった。
結果僕らは、いつも自分自身を見失ってしまうことに疲れていた。
唯一、自分を取り戻せたのは、同じような気質で、同じような悩みを抱える彼女と、二人きりで過ごす時間だった。
放課後の屋上で二人、風に吹かれていたのはそのためだ。
そんな時間においても、今ほど物理的な距離を近くすることはない。
正直にいうと、僕はおおいに戸惑っていた。
そんな僕の内心を知ってか、知らずか。彼女は彼女の話を続けていく。
「私、昔から引っ込み思案で、自分から何も出来なかった。周りと同じことも出来ないけど、自分ひとりで何かも出来ない。周囲のみんなが、協調して色々なことしたり、好きなことを追い求めたりするのを横目で見てた。何かしないのってよく聞かれたけど、そのたびに、したいことが見つからないからって答えるのが地味に苦しかった。きっと、キミも同じことで悩んでいたと思うけど」
彼女がそう言うが、実は少し違う。
僕は彼女のように悩んでいない。
何故なら既に、僕は諦めていたからだ。
しかし彼女は、諦念に甘んじることは決してなかった。
その片鱗を高校に入ってから特に覗かせていたことに、僕も気付いていた。
だからいつか、二人の時間は終わる時がくると、そう覚悟もしていた。
僕にとっての高校生活とは、その覚悟を受け入れる時間だった。
彼女はもっと顔を近づけ、一拍おいて続けた。
彼女がつばを飲む音がやけに生々しく聞こえ、僕も息を呑んだ。
「私が合唱部をやってることは知ってるよね。歌うことは好きだったし、みんなと歌うなら人前に立つのも怖くない。そう思って、少しでも自分を変えられたらと思って、取り組んでいたの」
それまでずっと帰宅部だった僕らだが、高校から彼女は新しい取り組みを始めた。それが合唱部だった。
「特別仲のいい子は出来なかったし、やっぱりグループや派閥があって、やっぱり私ははどこにも入れなかったけど、合唱部としてひとつの目的に進んでいくのは、楽しかった。これまで味わったことのない気持ちだった」
だから、と彼女は続けていく。
何となく、別れの言葉を予想して、僕は心を固くして準備をした。
彼女が選んだ選択ならば、僕は絶対にそれを受け入れると。
しかし彼女が続けた内容は、予想とは少し違っていた。
「だから私は、キミにも新しい景色を見せてあげたいって思った」
予想外過ぎて、僕は相当に変な顔をしたらしく、慌てて彼女が続けた。
「あ、違うの、キミに何かをしようとか、そういうことを言っているわけじゃないの。私はどんどん新しいところに進んでいきたい。だからキミは、私を見ていて欲しいの。たとえ何があっても、絶対に。私は絶対に新しい景色をキミに見せる。だからキミは、絶対に私のことを見ていて欲しい。私のことだけ、諦めないでくれたら、私はそれだけでもう何にも要らない」
気づけば隣り合う彼女と、じっと見つめ合っていた。
互いに互いを絶対に見続け、そして絶対に互いを諦めない。
それはもはや、幼馴染という関係性ではない。
その遥かに先にあるもの。一生を添い遂げるための契約だった。
そんな先のことまで、僕は考えたことがなかった。
けど、彼女を諦めない。それだけは僕にもできそうだった。
いや、絶対にできる。
そう確信をした。
だから僕は、告白をした。
つまりはそういうことなんだと、確信的に解釈をしたからだ。
しかし、その確信は、少々早合点が過ぎたらしい。
「え、え? キミが私のこと、好き?」
彼女の狼狽する姿を見て、僕は頭を抱えたくなった。
あくまで彼女は、少女らしい感性のもとに主張したに過ぎない。
恋心の告白はおろか、生涯の契約など、完全に意識の外だったようだ。
しかし、発した言葉は既にひっこみはつかない。
黒ひげ危機一発のように、もう一度元に戻すことは出来ないのだ。
それでも彼女は、気持ちを改め、すぐに答えてくれた。
「……うん! 私もキミのこと、ずっと好きだった。恋人同士になるならキミじゃなきゃ嫌だもの!」
そうして僕らは、屋上で笑いあった。
誰よりもわかり合っているつもりだったのに、わかっていなかった。
でも結果的にはわかりあえたことが、無性におかしかった。
ひとしきり笑いあった後に、僕は聞いた。
そもそも彼女の『夢』とな何なのだろうか、と。
彼女は急に自信なさげに縮こまり、隣の僕に体を預けるようにする。そして妙に畏まった口調でこう言った。
「──アイドル、やってみたいと思っているんです」
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