Scene 2 シャワー室と脱衣所でのやり取り
雨に打たれて体を冷やした彼女に、まずシャワーを勧めた。
いつも彼女は、ここに来ると先ずシャワーを使う。
今日は特に先ずは温まってもらいたい。予めバスダブに湯も張っていた。
「お風呂場も脱衣所も、すごくきれい。お風呂入る時は、毎日キミの部屋に来たいなー。だめ?」
冗談めかして、いたずらっぽく小首をかしげる彼女である。
勿論僕には、彼女に扉を閉ざす理由はない。いつでも大歓迎と本心を伝える。
お風呂は彼女が来訪する予定の日だけではなく、入念に綺麗にしている。
綺麗な場所で一日ぶんの疲れをシャワーと湯船で流して欲しい。
毎日来てくれるなら、例え一秒の時間でも、僕は毎日彼女に会いたい。
しかし彼女の立場上、足繁くここに通うのはリスク管理上の懸念がある。
そんな彼女を独り占めするほどの独善も。
かといって聖人君子のように遠くから見守るだけの偽善も。
どっちちかずで中途半端な僕は、返すべき言葉に詰まり、気持ちが立ち往生する。
「……って、ゴメン。私、ワガママになってる。キミと一緒にいるとこうなっちゃう。ごめん、迷惑かけてる」
うつむく彼女に、迷惑なんて微塵も感じてない旨を伝える。。
例えどっちつかずでも、それだけは本当の気持ちだった。
今度は気持ちをまっすぐに、目を見つめて正面から言葉を届けた。
幸い僕の気持ちは、伝わった。そう思いたい。
「うん! ありがとう。やっぱりキミは優しい。わかってるの。今の私の立場のことを気にかけてくれていること。でもね、ごめん、私本当にワガママだから、もうひとつお願いがあるの」
僕は頷くと彼女は続けた。
「お風呂してる間も、話を聞いていて欲しい。扉越しでもいいから。だから、私がお風呂から上がるまでここにいて欲しいの」
だめ? と、今度は彼女がまっすぐ、僕がしたように伝えてくる。
今の僕は彼女と関わることが目的で、それ以外にしたいことがない。
まっすぐに僕もうなずきを返すと、彼女は安心したように顔をほころばす。
着替えが入っているだろうスポーツバッグを持つ彼女を、脱衣所に残して内と外で別れる。
程なくすると、室内から着衣を脱ぐ衣擦れの音が聞こえてくる。
外で待っててくれとは言われたものの、盗み聞きのようで落ち着かない。
すると衣擦れの音が止む。見透かされたようで鼓動が跳ねる。
「ねーえ。ちゃんといてくれてる?」
確認めいたそんな声が、脱衣所の扉越しに聞こえてくる。
ちゃんといる旨を伝えると、衣擦れの音が再開する。
いなくなっても大概わからないはずだが、それが信頼だった。
「着替えたから。脱衣所の方へ来て。お願い」
やや遠くなった彼女の声を聞き届け、意を決し脱衣所の方へ戻る。
ほんの数秒前まで彼女がいた空間に、今度は僕が一人でいる。
シャワー室の扉のすりガラス越しに、小柄な肌色のシルエットが浮かんでいて、思わず目をそらした。
そこにいて話をしたいと言われたが、裸を見ることを許されてはいない。
シャワー室の扉に背を向けると、今度は床の半開きのスポーツバッグが目に入り、結局天井を向いた。
やがてシャワー室から、霧雨のようなシャワーの音が聞こえてくる。
「今日はイベントだったんだけど、うまく喋れなかったり、曲の歌詞を間違えたり、ぜんぜん及第点には遠かった」
彼女から吐き出された弱音が、シャワーの温水と共に流されていく。
本来それは、誰の耳にも届かずに、消えていくのだろう。
だが、それを僕に聞き届けて欲しい。それが彼女の要望だった。
「もしかすると、私には向いてないのかも知れない。高校の頃の大それた夢を、いつまでも引きずって、時間を無駄にしているだけかも知れない」
相槌や返事はしない。ただ彼女は、僕に聞いて欲しいと思っている。
彼女の稼業は偶像としての役割を求められる。弱音は許されない。
こんな場所で、シャワーの音に紛らわせなくてはならない立場だ。
それを受け止めて欲しい。それが彼女の望み。
「でもがんばるよ。私自身の目的と、キミのために。こんな私でも、待っててくれる人たちのために。アイドルとして、全力で」
弱音は決意の言葉で締めくくられる。同時にシャワーの音も止む。
僕は頷く。すりガラス越しでは、仕草は伝わらないが、伝わっていると信じている。それも信頼だ。
「ありがとう。いつも弱音を聞いてくれて。キミのおかげで、生きていける」
弱音を吐く時の張り詰めた感じはない。努めてくだけて彼女は話す。
それはお互い様。彼女に必要とされているから、僕も生きていける。
程なく湯船の水面に波が立つ音が聞こえる。彼女が湯船に浸かった音だ。
「あ〜気持ちいい〜。生き返る〜極楽〜」
波音に負けじと、彼女の開放的な声が聞こえてくる。
ひとしきり弱音は吐いてくれたら、彼女はもう大丈夫だ。
まるで風呂に浸かる親父のようで、冗談めかして指摘すると、
「あ〜、ひどいこと言う。これでも今をときめく、いや、ときめき始めている、かも知れないアイドルなんだけどなあ」
二重。三重に保険をかけるような言い回しに、つい僕は吹き出す。
それに彼女が拗ねて見せて、というやり取りを何度か繰り返していく。
彼女は雨と失敗の心労で冷やした心身を温め、僕も心を暖かくする。
待つ時間は心を疲弊させる。この時間は僕にも必要な儀式だ。
やがて波音が静かになる頃──。
「あ、あの。ちょっと、最後のワガママ聞いて」
やや焦り、照れたような彼女の懇願が聞こえる。どうしたのだろう。
頷いて返事をすると、彼女は控えめに理由を教えてくれた。
「その、そろそろのぼせそうだから、湯船から上がりたいの。恥ずかしいから、そろそろ脱衣所から離れててもらっていい、かな」
彼女の指摘で、ようやく我に返る。
僕が脱衣所にいつまでも陣取っていては、彼女はシャワー室から出られない。
謝罪の言葉を述べ、逃げるように脱衣所から飛び出す。
「……キミになら、見られても嫌じゃないけど、ね」
床に置かれたスポーツバッグだけが、そんな呟きを聞いていた。
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