『おかえり』の挨拶
佐原
Scene 1 『こんばんは』の挨拶
夕方頃から降り始めた雨の音に、僕はただ聞き入っている。
窓の外側を伝う幾筋の雨滴を、ぼんやりと僕は目で追いかけていた。
一人暮らしの、一人きりのアパートの一室。僕は一人、じっと待っている。
時刻は夜の九時前。そろそろ約束の時間が近い。
僕はじっと待っている。幼馴染の大切な女の子のことを、じっと。
ピンポン♪
やがて、雨音より軽快なチャイムの音が響き、僕は玄関に足を急がす。
張り裂けそうな胸のもどかしさを堪え、玄関扉越しに、来訪者に声をかける。
「こんばんはー。私、です」
間断ない雨音に交じる、聞き馴染んだ温かみのある声。
間違いなく、待ち望んだ人の声だった。
無骨な扉越しにも伝わる、世界に一つだけの声。
僕は大いに安堵し、胸のもどかしさは安寧に変わっていく。
待ち望んだ人の来訪で、待ち望んだ時間の始まりを迎えたのだから。
施錠を外し扉を開くと、待ち人──大切な幼馴染の女の子の姿があった。
笑顔の幼馴染に、こんばんわ、と僕も笑顔で返す。
今は『こんばんは』と同じ挨拶を交わす関係。
いつかきっと来る、違う挨拶をする関係に、変わっていく日まで。
大きめのベレー帽に、丸縁の眼鏡。肩にかけた大容量のスポーツバッグと、女性としては地味寄りのモッズコートとアンバランスだ。
いわゆる彼女なりの『変装』で、そういう隠蔽が必要な立場でもある。
「えへ。遅くなってゴメンね。雨で駅からの道がちょっと怖くて。でも折りたたみの傘があって良かったー」
丸縁眼鏡の向こうで彼女が目を細める。雨に降られたことも楽しそうだ。
「キミがプレゼントしてくれた、折りたたみ傘のおかげだよ」
淡い水色の折りたたみ傘を、水を切り玄関先で丁寧に畳んでいる。
プレゼントした側としては、少々こそばゆくも嬉しい。
しかし、折りたたみ傘よりも、彼女自身も濡れているのが問題だ。
ベレー帽のつばの先や、スポーツバッグから水が滴っている。よく見ると、手や頬にも水滴がついている。タオルを取って玄関先へ飛んで戻る。
「タオルどうもありがとう。キミはいつも優しいよね」
手渡すとはにかんで答え、白のパイル生地に頬や毛先の水滴を吸わせていく。
やがてひとしきり拭い、タオルを差し出しつつ、彼女が顔を寄せてくる。
柔軟剤と、雨と、雨に濡れた幼馴染のにおいがした。
よく見ると、まだ目端のあたりに少し水滴が残っているようだ。
それぐらいに彼女は、僕の方に顔を寄せている。
「タオル柔らかくてふかふかだった……気持ちよかった。まるでキミみたい。柔らかくて、優しくて。だから、好き」
目の前でそう告白され、思わず呼吸が止まる。
僕達は両思いの関係だが、気持ちの確認はいつも心高ぶらせる。
逸る気持ちを抑え、僕も同じ気持ちであると精一杯に答える。
彼女も満足そうに微笑む。それこそ洗いたてのタオルより柔らかそうに。
照れ隠しに、まだ水滴がついてることを伝える。
「え、まだ水滴がついてるかな。どこだろう」
少しじっとしていて欲しいと伝えると「うん」と素直に頷く彼女。
仕草で顔のどこかと推察し、目を閉じ、顔を近づけてくる。
まるでキスを待つような仕草で、口元から濡れた睫毛に意識を向ける。
タオルをそっと、驚かせないよう目元に当てると、彼女は肩を震わせた。
事前に伝えるべきだった。手を動かしつつ謝ると、小さく否定される。
「ううん。へっちゃらだよ。だってキミにされてることだもの」
猫のように目を細めた彼女の声は、昼寝したい時の猫の欠伸のように気持ちよさそうだ。
「誰かにお顔拭いてもらうの、とっても気持ちいいの。タオルも本当にふかふかだし、後で柔軟剤か教えてね。えっと、私、家事全般苦手だから、もしよければ色々教えて欲しいな」
目の前の彼女の言葉と、吐息の音が届いてくる。
外で鳴る雨音がホワイトノイズのようで、程よく気恥ずかしさを紛らわす。
或いはだから、僕達に気恥ずかしいやり取りをさせるのかも知れない。
目を閉じながら彼女は続け、その言葉に聞き入っていく。
「私は分不相応なことをしていて、まだまだ成長が必要なんだ。でも、こうしてキミがいつも優しく迎え入れてくれる。ふかふかのタオルで包んでくれるみたいに……ん、ちょっとくすぐったい」
首筋から耳元にタオルを当てると、彼女が身をよじり、笑みを噛み殺す。
タオルの当て方を工夫するが、逆に余計に感じてしまうらしい。
こそばゆさを噛み殺す彼女の表情を見ると、数年前を思い出す。
まだ僕らが学生だった頃。子供らしい僕と、僕に笑いかける彼女を。
終わったよと伝えると、彼女が目を開ける。朝起きた時みたいに。
「ありがとう。水気もとってもらったし。そろそろお邪魔しても、いい?」
いたずらっぽい上目遣いと、視線が交錯する。
目の前の彼女に集中しすぎて、大切なことを忘れていた。
早く彼女を部屋に迎え入れてあげること。
慌てて彼女に部屋に上がるよう促す。
「それでは、お邪魔しまーす」
お互いにやるべきことを終わらせた、土曜日の雨の日の夜。
僕らが待ち望んだ時間が、ようやく始まる。
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