桃市

石花うめ

桃市

「俺たちもう、死んじまうぞ」


 海岸に来た青鬼は、皺の寄った眉間を押さえながらつぶやいた。


 青鬼が住む鬼ヶ島は現在、海産資源の確保が困難な状況に陥っている。


 青鬼の目の前に広がるのは、黒銀に染まった水面。黒く濁った海に、死んだ魚が大量に浮いている。

 波が押し寄せるたび、ボロボロになった魚が青鬼の足元に打ち上げられる。


 二週間ほど前から、鬼ヶ島周辺の海が黒く濁り始め、それと同時に魚が死に始めた。

 海は悪臭を放っており、潜ることはもちろん、船を出すことすら難しい。


 この問題を解決するため、青鬼は毎日海に来て、ショウブの葉を海に流している。


 鬼ヶ島はショウブの群生地であり、鬼たちはショウブの葉を厄除けや消毒の道具として日常的に使っているのだ。


 青鬼は他の鬼にも手伝ってもらいながら毎日ショウブの葉を海に流しているが、海は一向に綺麗にならない。


 今日も儀式のようにショウブの葉を海に流した。汚れたままの海を見た他の鬼たちは、ため息をついて帰っていった。


 ——このままじゃ、海は汚れる一方だ。どうしたもんか。


 青鬼が呆然と立ち尽くしていると、後ろから何者かが来て言った。


「最近お前がちっとも魚をくれないから、見に来てみれば……。やっぱりそういうことだったのか」


 酒で灼けた低い声。親友の赤鬼だ。


「赤鬼!」青鬼は顔を上げて振り向いた。


 赤鬼は険しい顔をしていた。


「すまない。見ての通りで、最近全く魚が獲れないんだ」


 青鬼が謝っても、赤鬼は険しい顔のまま。青鬼の足元に転がる魚たちの死骸を見つめていた。それから重々しく口を開いた。


「お前は悪くない。これは人間の仕業だ」


「人間だって?」


「ああ、最近人間たちの島に工場ができたらしい」


 赤鬼は、海の向こうに小さく見える人間の島を睨んだ。


「それは本当か、赤鬼」


「俺はお前に嘘なんかつかねえよ」赤鬼は少し語気を強めた。「俺の家から見えたんだ。人間の島に近いところほど、海の黒い濁りが濃くなっている。それに空も同じで、人間の島に近い空ほど曇っているんだ」


 疑ったわけではなかったのだが、赤鬼が言うのなら間違いない。赤鬼は、高くて見晴らしの良い山の上に住んでいるからだ。そこからなら、遠くの海や空の様子もはっきり見える。

 それに何より、青鬼は赤鬼のことを信じている。


 青鬼は人間の島を眺めた。少し前まで海の向こうにくっきり見えていた人間の島は、たしかに以前より見えにくくなっていた。


「何の工場だろう?」青鬼はつぶやいた。


「それは俺にも分からない」赤鬼は腕を組んだ。「だが、そこから流れる排水に有害物質が含まれているとしたら、魚が大量に死んでいるのにも説明がつく」


「だから魚が……、こんなにも……」青鬼は納得すると同時に怒りを覚え始めた。「どうして。なんで、そんなことをしているんだ人間は。俺たち、人間に何か悪いことしたか?」


「何もしていないだろ。俺たちの祖父母世代の鬼が『桃太郎』とかいう侍に負けてから、人間と鬼との間には不可侵条約が結ばれてるじゃねえか。俺たちはそれをちゃんと守っている」


 不可侵条約——それは、鬼と人間が争わず平和に暮らすための抑止力として作られたらしい。


 その一。鬼は人間の島に、人間は鬼ヶ島に、上陸してはならない。

 その二。鬼は人間を襲ってはならない。

 その三。鬼が人間を襲った場合、人間は武力をもってそれに対抗することができる。


 この三箇条が、鬼と人間の間で締結された不可侵条約の内容である。


 しかし、この不可侵条約は明らかに鬼にとって不利な内容だ。


 元々この条約は、悪さした鬼を懲らしめる目的で桃太郎が作ったものらしい。だから鬼たちは、不可侵条約について文句を言えない。


 だが、桃太郎は二週間ほど前に亡くなったらしいし、鬼ヶ島には人間との純粋な平和を望む若い鬼が増え始めた。


 青鬼は、もう不可侵条約など必要無いと思っている。

 本当の平和とは、不可侵条約に縛られなくても、お互いを理解して思いやれることだ。


「これ、お前にやるよ」


 赤鬼は、腰に括りつけていた大きな麻の袋を青鬼に差し出した。破れそうなほど中身が詰まっている。それを受け取った青鬼の手は、微かな重みを感じた。


「これって……」


 青鬼はその袋の口を丁寧に広げた。中には、栗やキノコといった山の幸が、隙間なく詰められていた。


「いいのか、もらっても」


「ああ。俺たち鬼ヶ島の山間部に住む鬼は、お前たち海岸部の鬼が獲ってくれる魚をいつもご馳走になってるんだ」


「しかし今の俺には返せるものが……」


 赤鬼は顔の前で手を振る。


「何言ってんだ、受け取れよ。こういう時のために、俺は木の実を備蓄してあるんだ。困ったときはお互い様だろ」


 青鬼は麻の袋を大切に握りしめた。


「本当に、ありがとう」


「協力して、この危機を乗り切ろうぜ」赤鬼は牙を剥き出しにして豪快に笑った。「また魚獲れるようになったら、倍にして返せよ」


「ああ」


「そしたらまた、祝いの宴でもやろうぜ。その時のために、俺もデカい獣を狩っておくからよ」


 赤鬼は手を振ると、満足そうな顔をして帰っていった。


「申し訳ねえな。いつもいつも」


 青鬼はいつも、彼の優しさに救われている。


 赤鬼は、豪快で、大雑把で、気が早い。だから喧嘩もしょっちゅうするが、いざというときに最も頼りになる存在だ。


 青鬼は、遠くでのしのしと揺れる赤鬼の大きな背中を見つめながら、彼が親友で良かったとつくづく思った。


「さて、俺もやるべきことをやるか」


 青鬼は自分の小屋に戻ることにした。

 釣具や網の点検、漁に使う小舟の整備など、海に出られなくても出来ることはある。


 いつかこの状況が元通りになって、魚を獲れるようになった時のために、準備を万全にしておこうと思った。自分の生活のためと、赤鬼に恩返しをするために。


 人間が何をしていようが、自分がやるべきことは変わらない。


 ──にしても、人間ってどんな奴らなんだろう。


 海の向こうにある人間の島を見ながら、青鬼はふと思った。


 青鬼は、人間を生で見たことがないのだ。


 桃太郎が鬼ヶ島に侵攻してきた時期には、青鬼は生まれていなかった。生まれた頃には既に不可侵条約があって、人間と触れ合う機会が無かった。


 そのため、青鬼が人間について知る術は、教科書を読むか老鬼に話を聞くかの二択しかなかった。


 教科書には、「人間は、善良な心を持ったか弱い生き物だ」と書かれていた。鬼と違って、角も牙も持っていないらしい。


 しかし、桃太郎を迎え撃った老鬼の話によると、桃太郎という人間は体こそ鬼に比べて小さいものの、気が強く暴力的だったという。


 鬼ヶ島の岩肌が全体的に赤黒いのは、桃太郎が鬼をほとんど駆逐してしまって、流れた血の鉄分が染み込んでいるからだという話も聞いたことがある。


 どちらの情報が正しいのか、青鬼には分からない。


 しかし、青鬼は信じている。人間が赤鬼のような優しさを持った種族だということを。


 ただ、人間が流している工場排水によって、青鬼たちの暮らしが脅かされているのも事実だ。


 一体、人間の島では何が起きているのだろうか。


                    ・


「お前ら、このままだと死んじまうぞ!」


 桃市ももいちの荒々しい声が、工場中に響き渡った。


「急いで武器を作れ! 砲台を! 鉄砲を! 鬼が攻めてくるぞ!」


 武器の生産ラインで作業をしている村人たちの間に、失敗の一つも許されないような緊迫した空気が漂い始める。


 桃市は、作業をする村人たちを監視している。


 そのとき村人の一人が、鉄砲の組み立てに使う金属パーツを落としてしまった。


「す、すみません!」


「おい!」桃市はその村人の元に詰め寄る。「お前、ふざけているのか?」


 鬼の形相で村人の胸倉を掴む桃市。


 その村人は怯えながら「い、いえ」と答えた。


「罰として今日は残業しろ。決められた数の武器を組み立てるまで帰らせねえからな」


 投げ捨てるように、桃市は村人を突き放した。


 そして工場全体に向かって叫んだ。


「いいか! 俺の親父は、屈強な桃太郎は、もういない! 俺たちは自分たちの力で、島を守らねばならない! 親父は俺たち子孫のために、不可侵条約を結んだ。だが、親父がいなくなった今、いつ屈強な鬼たちが攻めてきてもおかしくない! 圧倒的な武力を持て! そして備えろ! そうすれば俺たちは平和になれる!」


 呼びかけに応えるように、村人たちの作業音が賑やかになった。


 叫んだ桃市は、少し酸欠になりかけた。


 自らの手で頬を勢いよく叩き、気持ちを奮い立たせる。もう二日は寝ていないが、村人たちに発破をかけた手前、自分が先に倒れるわけにはいかない。


 ——武力を持つんだ。親父がいなくなった今、俺がこの島を守らなきゃいけねえ。


 桃市は、二週間前までは好青年だった。


 父はこの島の英雄、桃太郎。桃市は英雄の息子として、常に模範的な言葉遣いや立ち振る舞いを意識して生活してきた。


 ところが二週間前、桃太郎が亡くなった。


 原因は分からないが、朝起きて突然苦しみ始め、桃市たち家族の応急処置も虚しく帰らぬ人となった。


 死ぬ間際、桃太郎は桃市にこう言い残した。


「桃市。俺が死んだら、お前が皆をまとめろ。そして皆で一丸となって、平和を目指すのだ」


 それ以来、桃市は住民を率いて武器の生産に力を入れ始めた。


 英雄である桃太郎が死んだという大きな話題は、鬼ヶ島にも伝わるだろう。

 不可侵条約に縛られていた鬼たちは、この隙を突いて侵攻してくるに違いない。


 鬼たちの侵攻を恐れた桃市は、鬼を迎え撃つ体制をいち早く整えるため、住民にきびだんごを与えて買収し、工場内に閉じ込めて馬車馬のように働かせた。


 なかには工場を抜け出す人がいたり、工場付近の海で獲れた魚を食べてお腹を壊した、と文句を言う人がいたりしたが、とにかく武器を作らせた。


 平和のためなら、多少の犠牲は厭わない。

 桃太郎が遺した言葉は、桃市の原動力になっていた。


「最近、鬼ヶ島からショウブの葉が流れてくるようになりました」


 キジの喜治よしはるが、桃市の肩に舞い戻って言った。喜治は島の見張り役として、上空から島の様子を見ているのだ。


「ショウブの葉?」


「はい。それもかなり大量に。一体どういうつもりなのでしょうか?」


「これは、宣戦布告だな」桃市は確信めいた口調で言った。

「“ショウブ”と“勝負”を掛けているのだろう」


 喜治は一瞬、嘲笑するように口を開けた。しかし、すぐに口を結んで真剣な表情を作って言った。「桃市様がそう仰るのなら、間違いないと思います」


「武器を作り終えて兵力が整ったら、すぐに鬼ヶ島へ向けて船を出すぞ。もし鬼たちが不可侵条約を破ろうとしているのなら、その危険性を分からせる必要がある」


「では、けん沙流丸さるまるも呼んできます」


「ああ。あの犬と猿は、とても役に立つからな。武器はもうすぐ作り終わる。明日の朝五時だ。それまでに連れてこい」


「かしこまりました」


 喜治は空高く舞い上がり、二匹の元へ飛んで行った。


 桃市は再び、工場内に怒号を響かせた。


「おい、明日の朝五時までに武器を作り終えろ! この島の住民全員分の銃と、全ての船に乗せる砲台を作るんだ。間に合うように死ぬ気で作れ! 俺たちの平和は、俺たちで勝ち取るんだ!」


 そうして急ピッチで武器づくりが進められた。


 朝の五時少し前。


 ようやく、決められた数の武器が作り終えられた。


「よし、全員船に乗れ! 鬼ヶ島に向けて出発する!」


 桃市は銃を携えて船に乗り込んだ。


 両隣には、猿の沙流丸さるまると犬のけん。肩の上にはキジの喜治を従えている。


 きびだんごさえ与えれば、彼らはいつでも桃市の味方になってくれる。桃市にとって扱いやすい家来たちだ。


 武器を作り終えてフラフラになった村人たちも、桃市の後に続いて船に乗り込んだ。


「出航だ!」


 桃市の掛け声とともに、大砲を積んだ十幾隻かの大型船が海へと進み始める。


 こうして桃市は、己の信じる平和への第一歩を踏み出したのだった。


                    ・


「おーい! 島にたくさんの船が来たぞー!」


 青鬼は鬼ヶ島中を走り回っている。


 今日も海岸に出ていた青鬼は、何隻もの船が鬼ヶ島に接近してくるのを発見したのだ。


 それぞれの船の中央には、黒くて丸々とした壺のようなものが置かれているのが見えた。壺の先端には、鰻を捕まえる長細いカゴのような筒がついていた。

 多分それは、魚を捕まえる道具か何かだ。


 奇跡が起きたのだと青鬼は思った。優しい人間たちが、船で大量の魚を持って来てくれたのだと。


 青鬼が興奮しながら走っていると、赤鬼が家から出てきた。


「船って、人間の船か?」


「ああ! 遠くから見たが、あれは人間だ。教科書で見たのと同じ、平らで黄色い顔をしていたから間違いない。角も無かった」


「何しに来たんだろうな」


 赤鬼は訝しげな顔だ。


「たぶん魚を届けに来てくれたんだ」青鬼は興奮が抑えられない。「船の真ん中に大きな壺のようなものがあったから、それに魚が入っているんだろう。工場排水の件で、お詫びに来てくれたんだ」


「そうだといいが……。ひとまず俺も海岸に行くぞ」


「ああ、一緒に行こう! 今日は宴ができるかもしれないからな」


 青鬼は赤鬼と一緒に海岸を目指した。


 途中、二人の様子を見た他の鬼たちもついてきて、海岸に戻る頃には鬼たちの大名行列ができていた。


 海岸には、人間たちの船がずらりと停まっていた。


 しかし誰も船からは降りず、鬼たちの挙動を見守っている。不可侵条約を守ってくれているみたいだ。


 先頭の船の頭には、凛々しい顔立ちをした男が立っている。教科書で見た桃太郎と似た顔をしている。


 その男は、青鬼たちを睨みつけながら声を張り上げた。


「我が名は桃市ももいち。我が父、桃太郎が亡くなって二週間が過ぎた。父が結んだ不可侵条約の効力は、父が亡くなったことによって失われつつあると感じている。その証拠として、最近鬼ヶ島からショウブの葉が大量に流れてきている。これは、父が亡くなったのを機に、人間の島に攻めこもうとしている合図なのではないか?」


 青鬼は一瞬、この人間が何を言っているのか分からなかった。


 あまりに堂々と言うものだから押し切られそうになったが、言いがかりにも程がある。


「違います。人間の島にある工場の排水によって海が汚染されてしまっているので、魚が獲れないのです」


 青鬼ははっきりと答えた。


「魚が獲れない? それなら山に住んでいる獣の肉でも食べていればいいだろう。何でも人間のせいにするのは、いくら力が強い鬼とはいえ強引ではないか?」


 青鬼の後ろにいる鬼たちは、桃市の言葉を聞いてざわつき始めた。怒鳴り声も混ざっている。

 青鬼は、騒がしい鬼たちを手で制した。


 人間たちは、そんな鬼たちの様子を船の上から見下して笑いをこらえている。


 青鬼は、人間に施しを期待したことを後悔した。それでも、悔しい気持ちを押し殺しながら桃市に向かって言った。


「分かりました。魚の件は我々鬼でなんとかします」


「おい青鬼」隣にいた赤鬼が、頭を下げようとした青鬼の肩を掴んだ。「頭なんて下げるなよ」


 しかし青鬼は、構わず続ける。


「誤解を与える行動をしてしまい、申し訳ございませんでした。我々には抗戦の意思はありません。今日も漁の準備をしなければいけないので、お引き取り願えませんか?」


 青鬼がもう一段と深く頭を下げると、桃市は「分かった」と言った。


「今後はもう、このような行為をしないように」そして青鬼たちに背を向けながら言い残した。「お前たちみたいな獣に、平和の邪魔をされたくないからな」

 

 次の瞬間、桃市の後頭部に何かが当たった。コツンと軽い音を立てて船に転がる。


「痛えな、おい」


 怒りを露わにしながら、桃市が青鬼たちの方を振り向いた。


 青鬼の隣では、赤鬼が目を血走らせていた。


「おい桃市! なにが獣だよ、あ⁉ テメエもう一回言ってみろやコラ!」


 赤鬼は力任せに腕を振り抜き、桃市に向かって何かを投げた。


 くるみだった。


 勢いよく飛んで行ったくるみを、桃市は手で叩き落とした。


 赤鬼の怒りは収まりそうにない。


「テメエ、俺たちの海を汚しておいて、よくそんなことが言えるな! 青鬼は、最近ずっと魚が獲れなくて辛い思いをしていたんだぞ! テメエの頭にくるみが当たった痛みなんかより、ずっと苦しい思いをしてきたんだぞ」


 赤鬼は腰の麻袋からくるみを取り出して、もう一度投げようとした。


 青鬼は赤鬼に必死にしがみつく。「やめろ赤鬼」


「なんでお前が止めるんだ青鬼! 人間のせいで魚が獲れなくなったんだぞ! お前はそれに困らされてたじゃないか!」


 他の鬼たちも赤鬼を止めに入った。


「そうだが……、」青鬼は牙を噛みしめた。「でも、平和のためには、ここで言い争っちゃいけない——」


「そんなのおかしいだろ! 誰かが犠牲にならなきゃいけない平和なんて、絶対に間違ってる! 困っている友達の一人も救えないで、何が平和だよ!」


 怒りに震える赤鬼の力は、余りに強すぎた。


 青鬼は赤鬼の腕力を止めきれず、尻もちをついた。

 他の鬼たちも赤鬼に薙ぎ払われた。


 そして赤鬼は、仁王立ちで人間に啖呵を切る。


「そんな平和、俺は認めない! 俺は青鬼を——」


 赤鬼が続けて何かを言おうとしたとき、雷鳴のような音が響き渡った。


「ごふっ!」赤鬼が口から血を吐いた。


 ——赤鬼? 何が起きた?


 焦げるような匂いの後、赤鬼の足元に血の海が広がった。


 赤鬼の大きな体が、前に倒れた。


「赤鬼? おい、赤鬼!」


 青鬼は咄嗟にしゃがみ込んで赤鬼の体を揺すった。


 しかし赤鬼は、か弱い唸り声をあげるだけ。それでも薄っすらと目を開け、血を吐き出しながら何かを伝えようとしている。


 青鬼は、船上にいる桃市を見上げた。


 桃市は手に小さな鉄筒のようなものを持っており、その先端からは煙が伸びている。それを空に向かって掲げ、人差し指を引いた。


 さっきの雷鳴に似た音が、また響いた。


「そこの赤鬼、お前は重大な罪を犯した。俺の頭に物を投げつけて攻撃し、不可侵条約を破ったのだ」


「そ、そんな……、待ってください!」


 許しを請う青鬼の声は、桃市にはもはや届いていない。


「俺たちは不可侵条約に則り、鬼たちに対して武力を行使する!」

 桃市は船に乗っている他の人間たちの方を見て叫んだ。「お前たち、ジュウを構えろ!」


 すると人間たちは一斉に、桃市が持っている鉄筒と同じものを手に構えた。


「危ない、みんな逃げろ!」


 青鬼の声に弾かれるように、鬼たちは一目散に走りだした。


 しかし、雷鳴のような音が一発また一発と響くたびに、鬼が一体また一体と血を流して倒れていく。


「タイホウを撃て!」


 桃市の掛け声とともに、雷鳴よりもっと重い音が何度も島に響いた。


 青鬼が魚を入れる壺だと思っていた黒い丸々としたものは、その先端の太い筒から球体を吐き出した。


 その球体は、鬼ヶ島に着弾すると同時に爆発して燃え上げった。


 鬼ヶ島は、もはや火の海だ。


 それでも青鬼は必死に、ほとんど動かなくなってしまった赤鬼の上に覆いかぶさる。


「青鬼……」


「赤鬼!」


 黒くなってしまって唇を震わせながら、赤鬼がささやく。いつもの笑顔で。


「今度、宴、しような……」


「ああ、もちろんだ!」青鬼は頷く。


 赤鬼の目蓋が少しずつ、目を覆っていく。「魚、獲れるよう、に、なった、ら……」


 とうとう赤鬼は、動かなくなった。


「赤鬼! 赤鬼!」


 赤鬼を避難させなければ。もう助からないかもしれなくても、せめて安らげる場所へ。


 青鬼は赤鬼の腕を肩に回し、顔を上げ、力の入らない足で地面を強く掴んで立ち上がる。


 滴った涙が赤くなっている。青鬼はいつの間にか頭から出血していた。


 しかし、今はとにかく赤鬼を——


「どこに行くんだ?」


 青鬼の頭の上から声がする。その声を聞いて、青鬼は腹の底が煮えくり返りそうになった。


 桃市だ。桃市が目の前にいる。


「よくも赤鬼を! 赤鬼、を! お前だけは絶対に許さない!」


 青鬼はこみ上げる涙をこらえられない。


 拳を堅く握り、地面を叩く。そうしないと、今にも桃市に対して手が伸びそうになってしまう。


 青鬼の悔しさを嘲笑うかのように、桃市は青鬼の頭にジュウを突きつけた。


「お前たちみたいな野蛮な獣を、生かしておくわけにはいかないな」


 桃市は口をゆがめた。


 青鬼は笑った。「どっちが獣だよ」


 雷鳴のような音が、また響いた。


                    ・


「これで平和になるな」


 赤黒く染まった鬼ヶ島を見て、桃市はつぶやいた。


「やはり鬼という生き物は恐ろしい。俺の頭にくるみを投げてきやがった。危なかった。あれは立派な武力行使だ。あんな野蛮な生き物なんて、不可侵条約を結ぶよりも、最初からこうして根絶やしにしてしまった方がよかったんだ」


 喜治よしはる沙流丸さるまるけんの三匹が戻ってきた。


 桃市はこの三体に、鬼が人間の島から奪ったとされる宝の残りを探しに行かせていたのだ。


「桃市さん、宝の残りは何もありませんでした」


 喜治が報告すると、桃市は、そうか、と頷いた。


「鬼たち、木の実をたくさん貯めてたな」


「ああ、俺たちが島に行くから、用意してくれてたのかな?」


「多分そうだろう。あーあ、満腹満腹」


 沙流丸と賢は、宝の代わりに木の実を見つけて食べてきたらしく、上機嫌に話している。

 

「船を出せ!」


 桃市が指示を出し、多くの人間と三匹を乗せた船は帰ることになった。

 


 人間の島に戻った桃市は、船を停めるなり新聞記者を呼び寄せた。


「桃市様、この度の遠征、お疲れさまでした」


 記者は、死んだ目をした魚のような笑顔で桃市を祝った。


「今すぐ俺の記事を書け」


「はい。どのように書きましょうか?」


「そうだな。まず見出しは『桃市、正義の鉄槌を下す』だ」


 記者は、なるほど、とつぶやきながらノートにメモを取り始めた。


「そして記事には、こう書くんだ。『海の向こうから人間に宣戦布告した鬼たちを、桃太郎の子孫である桃市が退治した。キジの喜治、サルの沙流丸、イヌの賢を従えて悪い鬼を退治する桃市の姿は、さながら父の桃太郎を彷彿とさせた。そして桃市の活躍により、人間の世界には平和が訪れた。』どうだ?」


 メモを取り終わった記者は、「いい記事が書けそうです」と言った。

「この記事の他に、『海が黒く汚染されて、魚が獲れなくなっている』という記事もありましたが、それどころではありませんね。桃市さんの記事を一面にします」


 記者はノートをパラパラとめくり、海の汚染についてのメモが書かれているであろうページを破ると、ぐしゃぐしゃに握りつぶした。


「今回の桃市さんのご活躍が多くの人に知られ、そして後世にまで語り継がれれば、私たちの世界はもっと平和になりそうですね」


 桃市と記者は顔を見合わせ、満足げに笑った。




 海は今日も、平和を物語るように凪いでいる。


 黒銀の水面には、今日も大量の死んだ魚が浮いている。

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