第7話 飛んでけ! 風船クマ!
「離せこのヤロー!」
風船クマはつるつるした前足2本で虎白を掴み、空へと舞い上がった。さっきまで自分たちが居た場所があっという間に小さくなる。ゴマ粒みたいに小さくなった葉月が何とか地面に這い上がりこちらを見上げているのが虎白にはわかった。
葉月の無事に安堵した虎白は改めて風船クマをにらみ上げた。虎白から見えるのは風船クマの胴体の部分。お腹当たりと足だけだ。動物園でプカプカ浮かんでいた時建物と風船クマを繋いでいた糸が途中で切れていて、風に揺られて揺らめている。
「くそ! 俺をどこに連れてくんだよ!」
すると、風船クマはゆっくりと体を傾けた。まさかあの動物園に戻されるのだろうか? 戻ってどうするというのだろう。まさか、あの従業員に捕まって永遠に閉じ込められるとか? もしかしたら殺されるかも。
最悪な想像をしてしまい、虎白は自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。だいたい、現時点で前足を離されたら階段をかけあがった時より高い位置から落ちる事になる。
考えるだけで足が地面を恋しがった。
とっさに風船クマの右前足にしがみついて。万が一にも振り落とされないよう力を籠める。
地面を見ると下方でチラチラと動き回る3人の人影が見えた。時折こちらを見上げているように思える。
きっと葉月たちだ。葉月たちは自分を助ける方法を探してくれてるに違いない。それならば下手に動かずおとなしくしておいた方が生き延びられるかもしれない。
虎白はコアラのようにクマの前足にしがみついて暴れるのをやめた。
何気なく横を向くと、その視界にまだ行った事のない世界が広がっていた。よほどはブロックやクレヨンが思い出深いのか、あちらこちらにブロックの建物やクレヨンが散乱している。
そして、その先に虎白は見た。
「枝羽根小学校?」
ケヤキの樹々に包まれた林の中に、ポツンと開けた校庭があり、更に見慣れた小学校のシンボルを見つけた。
高い位置から見るとハッキリわかる。葉月の心の中は、学校を中心として構成されていた。全てが学校を真ん中に、同心円状に広がっている。今まで沢山の広大な場所を駆け抜けてきたのに、その中心が見慣れた小さな小学校というのはちょっと可笑しい。
虎白は今の自分の状況も忘れてクスッと笑ってしまった。結局葉月も学校は好きなんだ。自分たちの事が嫌いで学校に来なくなったのではないと知り、虎白は内心肩の荷が下りる思いだった。
「虎白君!」
葉月の声で我に返ったのもつかの間。
「うわあっ!」
急に風船クマが加速し、虎白はギュムッと音がするほど風船クマの前足にしがみついた。
ブンッとクマが前足を上げ空中で仁王立ちとなる。
そこには、クレヨンに乗った葉月たちの姿があった。
「ど、どうしよう!」
虎白君が風船クマに捕まって空の彼方に連れ去られた。落ちかけた僕に手を伸ばして助けようとしたせいで。
どんなに見上げても、見えるのは風船クマの巨体だけ。虎白君の姿は小さな点のようにしか見えない。
「落ち着いて葉月君」
ムトさんが僕の肩に手を置く。
「で、でも」
「慌てて行動してもどうにもならないよ。まずはここがどんな場所なのかを知って、使えるものを探そう」
「はい……」
周りを見ると、そこは動物園に入る前と同じようにクレヨンのある駅舎や線路が広がっていた。
初めてクレヨンを使ったのは、電車でおばあちゃんの家に行った時。そこでおばあちゃんからクレヨンを貸してもらった。でも、僕があんまりにもクレヨンを気に入って絵を描くものだから元々使い古されたクレヨンはあっという間に汚れていった。
おばあちゃんはにっこり笑って僕に行ってくれたんだ。そんなに好きなら、そのクレヨンはあげるよって。それが初めて手にしたクレヨンだった。
最初に描いたのはロケットだ。僕にとって空は特別で、空の向こうに行けるものはもっと特別だ。クレヨンは、そんなロケットの形に、少しだけ似てる。昔はクレヨンをロケットに見立てて遊んだこともあったな。
「ねえ、あのクレヨン、空を飛ぶ事はできないかな」
さっき乗った時は地面から少し浮いただけで風船クマが居るような高い所までは飛んでいない。
ムトさんはニッと笑った。
「ここは君の心の中でしょ。葉月君がやろうと思えば、何でもできちゃうし、今までの事実何ていくらでも書き換えらるよ」
それなら、僕があの日想像したクレヨンロケットみたいに空を飛べるのだろうか。自信はないけれど、やってみる価値はあるはずだった。でも、もしできなかったらどうしよう。
僕にはそれ以外で良い案など思いつきそうにないし、途中でクレヨンから落ちてしまったら元も子もないのに。
僕が「やろう」と言えずに居ると、萩香ちゃんが業を煮やしたように数歩前に出た。
「やろう、それ。虎白君を助けないと」
「う、うん」
萩香ちゃんが駆け出した。僕やムトさんもそれに続く。
僕を心配してくれたのか、メーちゃん、たっちゃん、かっちゃんが僕の元に来てくれる。
その時ムトさんが僕に小声で話してきた。
「ねえ、葉月君はこの世界から出たい?」
「ど、どういう意味ですか?」
「何でもない。なんとなく聞いてみようと思っただけだよ」
ムトさんははぐらかすように笑った。けれど、すぐに真剣な表情で上空を見上げた。
オレンジ色の風船クマが日の光を浴びて青空の色を透かしている。その前足に虎白君らしき人物が必死にしがみつく姿が見えた。
「……虎白君を助けようね」
「はい」
僕も空を見上げて頷いた。
「虎白君、ごめんね」
すぐに行くから。
心の中に居る不安から目を逸らして、僕はクレヨンを手に取った。どうか、これ以上踏み込んでこないでと願いながら。
「葉月!」
ムトや萩香、メダカたちも風船クマの元にたどり着いた。その姿に虎白は胸をなでおろす。
風船クマが仁王立ちした事で景色は再び一変した。隣にはクマの巨体があり、広がる青空と広大な大地が見える。
「虎白君、怪我はない?」
萩香の問いに虎白はコクコク頷いた。
これから葉月たちは何をするつもりなのだろうか。両手両足を使ってクマの腕にしがみついている虎白は、全て皆に任せる他はなかった。
グンッとクマが姿勢を低くし、目の前に居た葉月たちに突進する。
「くっ」
前足も激しく前後し、虎白は振り落とされないよう手足に力を籠める。葉月たちは散り散りに避けて風船クマの周りを回り始める。
「虎白君!」
ムトさんがクマの警戒がそれている隙をついて手を伸ばしてきた。今なら! そう思って手を伸ばそうとした瞬間、風船クマが大きく身をよじる。前足を振るってムトや葉月たちを遠ざけようとしたのだ。
遠心力に引っ張られて虎白の足が離れ、クマの前足から振り落とされそうになる。
「うわ!」
マズイ。
腕の力だけで全体重を支えなくてはならなくなった。焦って風船クマの前足に爪をひっかけようとしたがつるつるした表面は弾力もありまるで手ごたえがない。むしろ手のひら全てを使って吸盤みたいに引っ付いた方がいいかもしれない。
全身から汗が噴き出した。疲れもたまってきてるし、自分の体重を両手で支えるのはずっと大変だった。
そして、クマが再び突進の構えを取ろうと前かがみになった時。
「あっ!」
「虎白君!」
あれほど力を入れていたのに驚くほどあっさりと虎白の手が風船クマの前足を離れていく。
ゆっくり離れていく虎白はクマに腕を伸ばした。敵なのに。すでに手の届かない場所に放り出されているのに。まだ間に合うんじゃないかという希望をかけるしかなかった。
何もつかむ事ができないまま伸ばされた腕から力が抜けていく。反対に虎白は目を強くつむった。背中に風圧を感じる。虎白の体は風を押しのけながら地面へ落下していった。
その時、伸ばした手を誰かが強く掴んだ。腕1本に全体重の重さがのしかかり、肩が抜けるかと思うほど引っ張られる。
「虎白君!」
「葉月?」
見上げるとクレヨンから身を乗り出した葉月が虎白の腕を掴んでいた。ついさっき自分がしたみたいに。
しかしあれは虎白が葉月を掴んだから大丈夫だったのだ。細身であまり筋肉もない葉月が虎白の体重を支えられるはずはなかった。
「わ!」
しかも今度は平らな地面ではなく円柱のクレヨンの上。葉月は虎白の体重に引っ張られグルンと体が半回転する。
「お、落ちる!」
さらにバランスを崩した葉月はクレヨンの前方に体重をかけた。その瞬間、クレヨンは葉月が体重をかけた先端部分を中心にグルングルンと回りながら地面に向かって突き進んでいった。
「「うわああ!」」
もはや制御不能だ。
「葉月君! 虎白君!」
回る視界の中で1本のクレヨンに萩香とムトが乗っている姿が見えた。2人もバランスを崩してどちらか一方のクレヨンに乗るしかなくなったのだろうか。
そんな事を数瞬考えた時には虎白も葉月もお互い手を繋いだまま、クレヨンから放りだされていた。葉月が手を滑らせたのだ。
目に映るのは青い空と輝く太陽。白い雲。虎白は自分が叫んでいるのか葉月が叫んでいるのか、それとも2人で絶叫しているのかわからないままケヤキの茂る林に投げ出された。
バキバキバキ!
耳元で枝の折れる音が響き、腕や足、首や頬を鋭い痛みが通り過ぎていく。
「イデデデデデ!」
最後は二股に別れた幹のちょうど間に挟まり腰を打ち付けた。痛みに唸ってる間に幹からずり落ち、地面に落下する。硬い地面の感触はたしかにあったが、その上にこれでもかと紅葉したケヤキの葉っぱが敷き詰められていた。相当薄いがクッションとしてないよりはマシだった。
「ううっ。痛い」
近くで葉月も唸ってる。幸い大事には至っていないようだ。
「大丈夫か葉月」
「平気。虎白君は?」
「寿命が10年身近くなったかもしれない」
「ははは。そうだね。僕まだ目が回ってる」
「俺も」
見上げると動いていないはずなのにぐるぐるまわって居るような感じがする。
「おーい。大丈夫ー?」
遠くからムトの声が聞こえてくる。メダカたちが我先に泳いできて葉月の元へ駆けつけた。
「俺の事は気にしてくれないのかよ」
そう言うと、申し訳程度にちょんっとつついてくれた。
その目が「お前の心配なんてしなくても大丈夫だろう」と言っているようで癪に障る。
遅れてムトと萩香がやってきた。クレヨンも大分すり減り、地面に降り立つと同時に2つに折れてしまった。
「あの風船クマはどうしたんだ?」
虎白が尋ねるとムトはふっふっふと胸を張る。
「クマについてた糸、あったでしょ?」
「ああ。元々建物と結びついてたやつな」
「そう。その糸とクレヨンを結び付けて飛ばしてやったの。結構大変だったんだから」
「風船クマの動きがゆっくりだったのとムトさんが器用だったのが幸運だったね」
何だかおいしい所を持っていかれた気がする。
「立てる?」
萩香が虎白に手を伸ばす。
「ああ。大丈夫」
萩香の手を掴んで起き上がる。葉月もムトの手を借りてフラフラと立ち上がっていた。
「けど、それだとクレヨンがなくなったらまた戻ってくるんじゃないか?」
「そうだね。でもどの道ここには入ってこれないよ。無理矢理入ってこようとした時点で木の枝に邪魔されてバンだよ」
ムトが上を指さして得意げに言う。確かに、ケヤキの林はうっそうと茂っていて枝が絡み合うように伸びている。
風船クマが入ってくるには枝をへし折ってくる他に手段はない。その時尖った枝に当たる可能性は充分にあった。
とは言え、早めに移動した事が見つからずに済むだろう。
「ケヤキというと、やっぱりケヤキ通りを思い出すよね」
萩香がケヤキの枝葉を見上げて言う。
「そう言えば」
虎白は風船クマにしがみついている時に発見した枝羽根小学校を思い出した。虎白が見た枝羽根小学校もケヤキの樹々に囲まれていた。
「俺、風船クマに掴まってる時枝羽根小学校を見つけたんだよ」
「本当⁉」
「ああ。そこもケヤキに囲まれてたんだ」
「他に同じような場所が無ければここが枝羽根小学校の近くって事になるね」
「じゃあ、そこに何かあるかもしれないよね! 行ってみようよ!」
「絶対出口のヒントがあるって思うよな!」
何たって自分たちが通う学校なんだから。
虎白と萩香は思い思いに伸びをした。ようやくここまできた。まだ帰れるとは決まっていないがそんな万感の思いが湧き上がってくる。あと一息。あとちょっとなんだ。
「次の目的地は枝羽根小学校! そうと決まれば早く行こうぜ!」
「うん!」
虎白と萩香は疲れを吹き飛ばして歩き出した。その後ろをムトと葉月、メダカたちが続く。
紅葉の広がるケヤキの林。道なき道を進みながら虎白たちは奥へ奥へと歩んでいく。
「あ! あれじゃない?」
やがて萩香が弾んだ声を上げた。樹々の隙間から灰色の壁のような物が見える。あの場所に違いない。
樹々をかき分け進んでいくと、確かに枝羽根小学校があった。虎白たちが見つけたのは小学校を囲む壁。
「何だこれ。何で本棚がここにあるんだ?」
その壁の一か所にポツンと本棚が置かれていた。周囲には本が何冊も転がっている。本を本棚に戻せという事だろうか?
「他に入れるところないよね。この本だなを何とかすればいいのかな」
「多分な」
虎白は順番など考えずに本を拾い本棚に詰め込んでみたが何の反応も示さない。
「違うのかもしれないね。葉月君、何か知らない?」
「え……」
葉月は自分に話を振られると思っていなかったのかきょとんとしている。
「え、じゃないだろ。葉月ならこの本棚と本、知ってるんじゃないか?」
「ああ、うん。そうだね」
葉月は浮かない顔のまま本棚に近づき、虎白が勘で入れた本の1冊を手に取る。そして、そのまま黙ってしまった。
「……もしかして、葉月君にもわからないの?」
「そ、そうじゃないんだけどさ」
葉月は本を抱えて地面に視線を落とし、言った。
「僕、ここから先へは行きたくない」
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