第26話 三つが一つに

 ふらりと姚春燕がよろめき「うッ」と吐き気をもよおすと、彼女は独りごちる。


「たいへん……酒楼で飲みすぎたかしら? ちょこまかとうごくのが、手にとるようにわかりすぎて……なんだか気もち悪くなってきたかも」


 姚春燕は酒で酔っていた。そのうえ縦横無尽にうごく影に意識をむけすぎもした。不運がかさなり、彼女は急激に体調をくずしてしまう。


 姚春燕は、また「うッ」と苦しげにうめいた。

 しかし、姚春燕が体調を悪くしているなど、影たちには関係ない。家屋の屋根にたどり着いた三つの影は、めいめいに姚春燕にむかって飛びたつ。


「怪異なんて恐ろしくもないけど……明日は二日酔いかもって考えると、ものすごく恐ろしい……」


 片手を口もとにあてがいながら言う姚春燕の声色は暗かった。彼女は「もう、うごきまわらないでくれる?」と力なく哀願すると、利き手にもつ木の枝をくるくるとまわした。


 姚春燕がまわす木の枝の動きを合図にして、朱浩宇たちを包みこんでいた霧が、流れる水のごとく動きだす。そして、動きだした霧は飛んでいる三つの影にむかって集まりだした。

 霧が集まったためだろう。影たちは濃い霧にさすがに視界を奪われたようで、進行方向がぶれる。目標を見失った影たちは、姚春燕の脇をすっと通りすぎてしまった。

 その後。絡み取るがごとく三つの影のまわりに集まりきった霧は、おたがいを吸いよせあう。

 かくして、三つの影はひとつにまとまってしまった。

 まとまったからだろう。ぽてんとやわらかく低い音がして、影たちが地面に落ちた。少し前までなら、すぐに逃げだした影たちだったが、今回は逃げだせないらしい。落ちた場所で、じたばたともがくばかりだ。


「三つだったものが、ひとつになったわね」


 いらなくなった木の枝を放り投げながら、姚春燕は冗談めかして言う。しかし軽口は言えても表情はまだ冴えず、顔色は青い。疲れた様子の彼女は、おもむろに弟子たちに視線をむけた。


瞑想めいそうは、ここまでとしましょう」


 パンッと手を打って合図し、姚春燕が朱浩宇たちに呼びかける。

 すぐに呼びかけに応じ、朱浩宇たちは目を開けると立ちあがった。

 朱浩宇は剣を鞘にもどし、たいまつを手にする。そして、姚春燕に目をむけた彼は「師父?」と、驚きの声をあげた。

 朱浩宇と同様に驚いた夏子墨が、彼の言葉をついで師匠に問いかける。


「どうされたんですか? 顔色がまっ青ですよ!」


 言いながら、夏子墨は慌てて師匠に駆けよった。

 周燈実も姚春燕のそばに駆けつけ「師姐。だいじょうぶ?」と、彼女を心配そうに見あげる。

 心配そうにする直弟子たちと弟弟子を目にし、ずぼらで甘ったれな性格が、姚春燕のなかで顔をもたげた。彼女は「あの怪異、すばしっこくて……気配を追っていたら、気もち悪くなっちゃった」と、夏子墨に泣きつく。

 姚春燕の言葉を聞いたからだろう。朱浩宇の不安がった表情が、いっきに冷ややかな表情にかわった。


「なぁんだ。酒のせいですか。師父の自業自得ですね。心配して損した」


 夏子墨に背中をさすってもらう姚春燕のすがたを見ながら、朱浩宇は馬鹿にした口調で師匠に嫌味を言った。

 弟子の嫌味に心当たりがありすぎるのと、体調の悪さのせいで、姚春燕は「うぅ」とうなるしかできない。しかし、夏子墨に背中をさすりつづけてもらったおかげだろう。少しずつ気持ちの悪さが軽減され、彼女の青かった顔に赤みがさしはじめる。


 やや元気を取りもどした姚春燕は、弟子たちを見まわした。そして、つとめて師匠らしい態度をとると「じゃあ、瞑想めいそうのできの採点をしましょう」と、弟子たちに告げる。


「えぇ?」


 朱浩宇が不満げな声をあげた。見ると、彼の表情には明らかな焦りがうかんでいる。動揺を隠せない様子の朱浩宇が「い、今やる必要なんて、ないですよ」と、姚春燕の提案に拒絶の態度をしめした。

 しかし、姚春燕は朱浩宇の言葉にとりあわない。彼女は「なにを言ってるの。こういう場面でこそ、やるべきよ!」と言いかえし、ためらわずに話しだした。


「まずは、夏子墨ね」


 名前を呼ばれた夏子墨は、姚春燕の背中をさする手をとめる。軽く頭をさげると、彼は拱手の礼をとって師匠の目前にすすみでた。


「完ぺきな瞑想めいそう状態だったわね。わたしの霧と一体になっていたわ。よくできました!」


 頭をさげる夏子墨にむかって、姚春燕が絶賛する。

 称賛された夏子墨は、頭をさげたまま笑みをつくった。そして、さらに頭をさげ「おそれいります」と礼をのべる。

 夏子墨の礼儀正しい態度を見て、姚春燕は深くうなづいた。それから、彼女は「つぎは朱浩宇よ」と今度は朱浩宇に目をむける。

 名前を呼ばれた朱浩宇が、びくりと肩をゆらした。

 すると、夏子墨は師匠の前から拱手の礼をとったまましりぞき、朱浩宇のために場所をあける。

 夏子墨があけた場所に、気乗りしない様子の朱浩宇がとぼとぼと移動した。ちらりと姚春燕の顔を見た彼は、彼女に対してしぶしぶの態度で夏子墨と同様の拱手の礼をとる。

 朱浩宇のさげた頭にむかい、姚春燕が言葉をかけた。


「まずまずね。合格まで、あとひと息」


 姚春燕の言葉を聞いて、朱浩宇は頭をさげたまま苦々しい表情をする。しかし表情こそ苦々しくあるが、彼からは驚きや疑問をしめす感情は感じられなかった。

 朱浩宇の言動から、彼にとって師匠の評価は予想の範囲内だったと姚春燕は察する。

 評価に対する反応が薄い朱浩宇に、姚春燕はさらに声をかけた。

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