第六章 虎口を逃れて竜穴に入る
第25話 師父の戦いぶり
朱浩宇の言葉を聞いた姚春燕は、びくりと体を跳ねさせる。ヘラヘラしていた彼女だったが、さすがに危機感をおぼえて「そ、そうだったわね!」と口にし、おたおたしながら朱浩宇たちのほうへ走りよった。そして、はおっていた
姚春燕の脱いだ上衣が優雅になびく。上衣の生地は透明感があり、たなびく様子は幻想的だ。
「三人とも、準備しなさい」
ひさびさにやる気になった姚春燕は、しっかりとした口ぶりで朱浩宇たちに呼びかけた。
師匠が上衣を脱ぐのを見た弟子ふたりは、彼女が何をはじめるのか察しがついたらしい。なんの疑問もない様子で「はい」と返事をすると、彼らはサッとその場に座りこんだ。そして、すばやく座禅をくむ。
しかし朱浩宇たちとはちがい、周燈実には姚春燕の言葉の意図が分からなかったらしい。彼は、きょとんとした表情で立ちつくしている。
周燈実が戸惑っていると気づいたのだろう。周燈実のちかくにいた朱浩宇が「座って
訳が分からない様子ながらも、朱浩宇にうながされるまま周燈実も座禅をくむ。
こうして座禅をくんだ三人は、それぞれに瞑想をはじめた。
朱浩宇たちが瞑想をはじめるとすぐ、姚春燕は脱いだ上衣を空中に放り投げる。
上衣が空中を舞うなか、姚春燕は胸の前で手のひらをパンッと打ち鳴らした。
手を打つ音と同時に、空中を舞っていた上衣が形をくずし、霧散する。そして、彼らのいる周囲は濃い霧につつまれた。
月明りしかない夜ふけ。霧もあいまって、視界はないも同然となる。
しかし三体の小さな影は、視界の悪さを恐れもせずに飛びまわりつづけていた。座禅をくむ朱浩宇たちの頭上や脇を、霧が発生する前とほぼ変わらない速度で影が飛びかう。
影が飛ぶ気配は感じているはずだ。しかし、朱浩宇、夏子墨、周燈実の三人は、逃げだしたりせずに座禅をくみつづけていた。
影は何度も朱浩宇たちのそばをかすめ飛ぶ。
かすめ飛ぶうちに、影のうちのひとつが朱浩宇の顔めがけて飛びかかった。
朱浩宇も気配に気づいているかもしれない。しかし、瞑想中は何があっても動かないのが鉄則だ。そのため、朱浩宇は逃げる様子もなく瞑想をつづけている。
影が朱浩宇の顔に触れる直前だった。
ブンッと風をきる鋭い音がする。つづいて、軽い打撃音がした。打撃音の直後、朱浩宇にむかってきていた影がふっ飛んだ。
影がふっ飛ぶと同時に、朱浩宇の顔を衝撃波が襲う。
「!」
驚いたのだろう。朱浩宇は、びくりと小さく身体を跳ねさせた。
ふっ飛んだ影が地面に落ち、飛びころがる。しかし、すぐに態勢を立てなおしたらしい。すばしっこく地面を移動すると、影は近所の民家の壁を駆けのぼった。そして、また空中へ飛びだす。
空中へ飛びだした影のむかうさきは、ついさっき影を跳ね飛ばした人物だ。その人物である姚春燕は、飛びかかってくる影とはべつの方向を見ていた。
「むだよ」
影のむかうさきであるはずの姚春燕は、影を見もせずに言った。彼女は手に、枝ぶりのいい木の枝を握っている。その木の枝は、まきだ。村を見まわっていたときに、民家のまき置き場から彼女がくすねたものだった。
姚春燕は木の枝を握る手を勢いよくふった。空気をきる音がまたして、ついさっきの風きり音も姚春燕が木の枝をふった音だとわかる。
姚春燕が木の枝をふった直後。彼女にむかって飛んできた影は、また弾かれて軽い打撃音をたてた。弾かれた影は地面に落ち、また跳ねころがる。
ここで初めて、ほかのふたつの影も今までにない状況に気づいたらしい。ふたつの影は朱浩宇たちのまわりを飛ぶのをやめ、標的を姚春燕にかえた。
三つの影が、それぞれに姚春燕にせまる。
「だから、むだなんだってば」
三つの影がむかってくるなか、姚春燕が気だるげに言う。話す彼女の目は、襲いかかってくる影をただの一つも見ていない。視線を動かさずに、彼女はさらに話をつづけた。
「まとめて襲ってきても結果は同じ。あなたたちには視界が悪いでしょうけど、わたしにはあなたたちの動きが筒ぬけなのよ」
言いきかせるがごとく、姚春燕は淡々とかたる。
しかし、襲ってくる三つの影は姚春燕にむかう勢いをゆるめはしなかった。
影が諦めないと判断した姚春燕は、ため息をひとつ吐くと、目にもとまらぬ速さで木の枝をいちだんと大きくふるった。
今までより長く大きな風きり音がする。木の枝をふる風きり音は、長く大きくはあったが一度だけだった。けれども、その一度で三つの影がたてつづけに弾かれ、たてつづけに軽い打撃音をたてる。
三つの影たちは地面に落ちて、それぞれが地面に転がる。しかし、影たちはまだ歯むかう気力があるらしい。すばやい動作で、めいめい高い場所へとまた駆け登っていった。
「まだやるの?」
やはり影に視線をむけず、姚春燕はあきれた口ぶりで言う。そして、彼女は大きく両腕をひろげると、戦闘中であるにもかかわらず瞳を閉じた。自らの視界を封じた無防備な態勢のまま、彼女はかたりつづける。
「霧はわたし、わたしは霧なの。だから、この霧のなかで起こるすべては、わたしのなかで起こっているも同然なのよ。いちいち見る必要すらない。観念して、おとなしく捕まればいいのに」
姚春燕が話を終えたときだった。とつぜん、彼女は顔色を青ざめさせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます