第七章 死んで花実が咲くものか?

第31話 屈辱しかない救われ方

 ――うそだろ? さっき全力で走ったばかりなんだぞッ!


 朱浩宇は心のなかで頭をかかえた。周燈実をかかえて走ったばかりの朱浩宇は、かなり疲れていた。よって、すぐに体力の限界をむかえるだろう。


 ――どうしたら、いいんだ?


 手だてはないかと、朱浩宇は自分の身体をサッと見まわす。しかし、剣を抜こうとすれば走る速度が落ちるだろう。そうなれば、すぐにも巨大モモンガの体当たりをくらってしまう。走る速度を落とさずに今すぐ投げるのが可能なのは、モモンガ団子だけだ。

 朱浩宇は手のなかの毛玉をちらりと見て「チッ」と舌打ちする。


 ――くそッ! 今度こそ、逃げきれそうにない……


 巨大モモンガの体当たりをまぬがれないと、朱浩宇が覚悟したときだ。朱浩宇のわきをすばやく動く影を、彼は視界のはしにとらえた。


 ――なんだ?


 朱浩宇は不審に思う。

 すばやく動くその影は、全速力で走る朱浩宇に軽々と急接近した。


 ふわり。


 朱浩宇の体が思いがけず空中を飛ぶ。


 ズザザザザザッ!


「わわッ!」


 とつぜんの浮遊感と砂をまきあげる激しい風に襲われ、朱浩宇は悲鳴をあげた。彼の手が無意識にたよれるモノをさがす。そして間もなく、もがく手が支えとできるモノをみつけた。

 なかなかガッシリしていて、体を支えるには十分に思える。それに無我夢中でしがみついた朱浩宇は、ホッと息をついた。支えをみつけ、すこしだが余裕を取りもどした彼は、現状を確認すべくまわりに目をやる。すると信じられないモノが目に飛びこみ「なッ」と、言葉にならない声をあげてしまった。


 ――夏子墨?


 朱浩宇が見あげたさきにあったモノ。それは、夏子墨の顔だったのだ。しかも、息がかかるほど距離がちかい。そこでようやく兄弟子が自分をかかえて高く跳躍していると、朱浩宇は気づいた。

 どうやら、朱浩宇が巨大モモンガと衝突しかねないと気づいた夏子墨が、彼をたすけてくれたらしい。


「!!!!!!」


 巨大モモンガの攻撃から逃れられ、ホッとした。しかし、同年代の男に抱きかかえられ救出されもした。安堵と屈辱が朱浩宇の体のなかで激しくうずまき、彼は声もでない。


「わぁッ!」


 おどろき黙りこむ朱浩宇とは反対に、捕まっているのも忘れ歓声をあげる者がいる。それは、モモンガ団子だ。彼らは「屋根までひとっ飛びだッ!」と、たのしげな声をあげた。


 トンッ。


 飛びあがっていくらもたたぬうち。男ひとりをかかえているとは思えない軽い音とともに、夏子墨は民家の屋根のうえに降りたった。


「朱師弟。危ないところだったね」


 朱浩宇をゆうゆうと抱きかかえたまま、夏子墨が言った。

 朱浩宇はかえす言葉が見つからず、青くなったり、赤くなったりしている。

 すると、朱浩宇の手のなかのモモンガ団子の一匹が口をひらいた。


小童こわっぱをかかえて、こんなに高く飛びあがれるなんて……きれいなお兄さん、あんたの軽功はすばらしい! 一体何者だ?」


 夏子墨を絶賛したのは『二の兄者』と呼ばれる次男のモモンガだ。ほかの二匹が「そうだ、そうだ」とか「二の兄者のいうとおり!」とか、次男の話に同調して色めきたっている。


 ちなみに、次男モモンガが言う『軽功』とは、身を軽くする武術のひとつだ。習得すると身軽になり、まるで飛ぶかのごとく跳ね、人なみはずれた速さで走ったりできる。内功と同じく、仙術を学ぶ者なら取得が必須の武術の一つだ。


「ははは」


 モモンガの疑問に、まじめに答える気がないのだろう。夏子墨は笑ってごまかした。

 すると、夏子墨の腕のなかで「笑ってないで、はやく降ろせよ!」と朱浩宇がわめいた。

 朱浩宇が声をあげたせいで、モモンガたちの話の矛先がかわる。


小童こわっぱ。たすけてもらっておいて、その言い草はなんだ! おまえは、礼のひとつも言えんのか?」


 次男モモンガが、朱浩宇の態度を叱った。すると、毎度のごとく「なっとらん!」とか「まったくだ!」とか、残りのモモンガたちが合いの手をいれる。


「なッ」


 モモンガたちから吊るしあげをくらった朱浩宇は、不愉快な気もちがさきにたち、また言葉にならない声をあげた。あわせて、先日の妓女の幽霊の言葉をふいに思いだす。


『君子にあるまじき行いよ』


 ――なぜわたしは幽霊や妖怪に、人としての在り方を説かれてばかりいるんだ?


 朱浩宇は、なんだか情けない気もちになった。同時に、男に抱きかかえられている現状も思いだし、さらにやるせなくなってしまう。


 ――ここにいる全員の記憶を、消しさってしまいたいッ!


 情けなさでいっぱいの朱浩宇は、心からねがった。しかし、どんなに祈ろうとねがいが叶わないと、もちろん分かっている。

 よって、過去は消しされないと分かれば分かるほど、自然と怒りがこみあげてくるのだった。そして、がまんの限界にたっした朱浩宇は、モモンガ団子にむかって怒鳴りちらす。


「うるさい! 黙ってろよ!」


 朱浩宇がモモンガ団子に命じたときだった。


 ブォオォォッ!


 朱浩宇たちが話をするうちに態勢をたてなおし、また巨大モモンガが襲いかかってくる。

 夏子墨がいち早く、巨大モモンガの襲来に気づいた。朱浩宇をかかえたままの彼は合図もせずに、軽く民家の屋根を蹴って飛びあがる。


 ふわり。


 朱浩宇をまた唐突な浮遊感が襲った。


「わわッ!」


 驚いた朱浩宇は、さきほどと同じ情けない悲鳴をあげて、また夏子墨にしがみつく。


 ガタ、ガタ、ガタッ!


 巨大モモンガが滑空して起きた風で、家々がゆれた。しかし、木製の民家はきしみはしたが、なんとか持ちこたえる。

 夏子墨が軽功をつかって飛びあがったおかげで、彼がかかえる朱浩宇とモモンガ団子も体当たりをまぬがれた。

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