第9話 幽霊のほしいもの

 夏子墨の人となりを、朱浩宇があらためて認識した直後だった。ほおがひやりとして、朱浩宇は思わず「あぁ」と、力なくうめいた。


 ――しまった!


 幽霊なんてひとりで倒せると調子にのっていたのに、醜態しゅうたいをさらしてしまったと、とっさに朱浩宇は理解する。しかし、しくじったと感じつつも、彼はほおに触れるものを見たくてしかたなくなった。心が命じるまま朱浩宇は、夏子墨から開き戸のほうへと視線を移動する。視線を移す際、彼の目のはしにうつった夏子墨の表情が、険しくなった気がした。

 一瞬ではあるが夏子墨が気になる。しかし、つぎの瞬間には彼などまったく気にならなくなっていた。なぜなら、ほおに触れるものが見たい気もちで、朱浩宇の頭はいっぱいだったからだ。


 ――つかんで引きよせ、かきいだきたい!


 触れるものへの衝動が、朱浩宇のなかを駆けめぐる。


「だんなさま。あなたは、わたしだけを見なければダメよ」


 声と一緒に、もう片方のほおにもひんやりとしたものが触れる。ひんやりとしたもの、それは勝気な目の女の手だ。視線だけではなく朱浩宇の顔も強引に、しかし従順じゅうじゅんに勝気な目の女のほうへむかされた。


しゅ師弟してい!」


 夏子墨のするどくもとがめる声がする。

 また一瞬。朱浩宇は、われにかえった。


 ――夏子墨のほうを見なければ……


 しかし、勝気な目の女が「駄目」と、朱浩宇の頬にそえた手に力をこめるため、行動にうつせない。


「私を見て。あなたは、わたしの夫になるのよ」


 うっとりと自分を見つめる朱浩宇に、勝気な目の女が言ってきかせる。

 夏子墨はいらだたしげな声で「夫になる?」と、勝気な目の女の言葉を繰りかえす。そして「きみは……きみたちは、夫をもとめているのか?」と、彼女にたずねた。

 すると朱浩宇を見つめたまま、勝気な目の女が「そうよ」と応じ、話しだす。


「この人は、わたしの夫になるの。だから、おねがい。わたしだけのものになって」


 言った言葉の前半は夏子墨に、後半は朱浩宇にむけた言葉だった。話をしながら勝気な目の女は、どんどんと朱浩宇に体をよせていく。その様子から彼女の関心が、朱浩宇だけに集中していくのがわかる。

 朱浩宇のうえに馬乗りになる勝気な目の女を見ていた夏子墨は、急に「ああ、そうか」と何ごとかに気づいた様子になる。そして、怒気を弱めると話しだした。


「夫婦の縁をもとめているのだね。だとすれば、男だけが狙われるのにも納得がいく」


 確信めいた口ぶりで言い、夏子墨はゆっくりと立ちあがる。立ちあがりながら彼は、自分のうえから寝具のうえへと、黒目がちな女を移動させた。

 夏子墨の動作はとても丁寧ではあるが、有無を言わせない迫力があり、黒目がちな女は抵抗できない。

 黒目がちな女を脇にどけた夏子墨は、寝台からゆっくりとおりた。

 黒目がちな女は気圧されていたが、寝台から立ちあがった夏子墨を見て、われにかえり叫ぶ。


「行かないで! あなたは、わたしの夫になるの! どうして、魅了が効かないの?」


 混乱しながらも夏子墨の着物の袖をつかむことに、黒目がちな女はかろうじて成功した。

 黒目がちな女に背をむけたまま、夏子墨は「すみません。わたしはあなたの夫にはなれません」と、彼女に謝罪する。そして、着物の袖をつかまれたまま振りかえると「それと。魅了が効かないのは、わたしが完全な人ではないからですよ」と、涼しい顔で言った。


「人じゃ……ない?」


 問いかえしながら、黒目がちな女は夏子墨の顔をジッと見つめる。

 夏子墨は「ええ」と応じ、彼にしてはめずらしくニッと笑う。

 笑う夏子墨の目に一瞬、赤い光がよぎるのを黒目がちな女は見た。夏子墨の笑顔に、戦慄せんりつをおぼえたらしい。彼女は、恐怖で目を見ひらく。そして、すぐさま夏子墨から身をひくと「あなた、なんなの?」と、ふるえる声でたずねた。

 それを聞いた夏子墨は、少し困った顔をすると「さあ」と、小さく首をかたむけ、話しだした。


「おはずかしい話ですが……自分でもわからないのです」


 そう答えると、夏子墨は利き手の中指を自身の口もとにちかづける。そして、指さきに歯をたてた。指さきから流れる血が、彼の唇に付着するさまは、まるで唇に赤い紅をさしたかのようだ。もともと整った顔だちの男であるのもあいまって、妖艶で世にもうつくしい光景だった。

 この光景を目の前で見た黒目がちな女から、抱いたばかりの恐怖心が吹きとぶ。そして彼女の視線は、自然と夏子墨の口もとにくぎ付けになってしまった。

 ぼうぜんとして動けずにいる黒目がちな女のひたいに、夏子墨はすばやく指の血を付着させる。すると、彼はひとつの妨害にもあわずに自身の着物の袖を取りもどし、朱浩宇のほうへ歩きだす。

 黒目がちな女は驚いた顔をして、夏子墨を視線で追った。しかし、彼女は夏子墨に追いすがろうとはしない。

 夏子墨は朱浩宇にちかづきながら「お嬢さん」と、今度は朱浩宇に馬乗りになっている勝気な目の女に呼びかける。

 ところが、朱浩宇ばかりに注意をむけている勝気な目の女の眼中に、夏子墨はいない。よって、彼の呼びかけに彼女は無反応だった。

 しかし、夏子墨は話しかけつづける。


「すみません。あなたの伴侶に、師弟はなれないのです」


 おだやかな口ぶりで言うと、朱浩宇におおいかぶさる勝気な目の女のひたいにも、夏子墨は血を付着させた。そして、彼女から朱浩宇を苦労なく引き離し強引に立たせると、夏子墨は強く彼の背中をたたく。

 夏子墨が朱浩宇をたたくのと同時に、彼らを中心にまわりの空気がはじかれ波うつ。

 風のあおりをうけた女の幽霊たちは、体を硬直させつつも体をのけぞらせた。

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