第8話 きまりの悪い再会

公子こうし。わたしが『どうしたいのか』と、おっしゃいましたね」


 夏子墨の上衣をゆっくりと脱がせながら、女が久々に話しだした。

 落ちついた態度の夏子墨は、無言でうなずく。

 夏子墨の問いにやっと答える気になったのだろう。うっとりと夏子墨を見あげながら、女は「わたしを思ってくださるなら……」と、口をひらきかけた。

 しかし、女の話のつづきを聞いていられない事態が、朱浩宇の身におこる。


「あら、また来ていたのね」


 夏子墨たちをのぞき見していた朱浩宇の背後で、ふいに声がしたのだ。


 ――この声は!


 驚き、身をこわばらせつつも、朱浩宇はすばやく背後をふりかえる。すると、ひとりの女が朱浩宇を見おろしていた。


他人様ひとさまの情事をのぞくなんて、ほめられた趣味じゃないわね。君子くんしにあるまじきおこないよ」


 にたりと笑う女が、朱浩宇をたしなめる。

 朱浩宇は、いじわるな笑みをうかべる女の勝気な目に見おぼえがあった。彼女は間違いなく、夕刻に会った女の幽霊だ。

 しかし、幽霊だと分かったのに、朱浩宇はたじろいでしまう。なぜなら彼女は、夏子墨をおとしめたい自覚のある朱浩宇に対し『君子にあるまじき』などと言ったからだ。多少ではあるが罪の意識を感じていた彼は、女の言葉から言葉以上の意味を感じとり、気持ちをみだしてしまう。


「そ、そんなつもりでは……」


 朱浩宇の口から思わず保身の言葉が飛びだす。

 相手は幽霊。討伐こそ優先され、誤解をとく必要などまったくない。

 であるのに、うしろめたさと恥ずかしさに苦しめられ、朱浩宇は身動きがとれなかった。

 動揺する朱浩宇を見た女は、勝気な目を細めてほほ笑みを深くする。そして「お子さまは好みじゃないの。でも、食わず嫌いは良くないかもね」と自問自答するやいなや、ゆっくりと朱浩宇にちかづいてきた。

 勝気な目の女が、目の前にせまる。

 罪悪感と羞恥心にくわえ、幽霊とはいえ若い女に急接近された朱浩宇の混乱は、極限にたっする。

 子供をあやす口ぶりで「だいじょうぶ。こわくないわ」と、勝気な目の女が言い、朱浩宇のほうへ手をのばす。

 のばされた女の手が朱浩宇に触れようとするのを見て、彼は正気にかえった。


 ――さわらせてはいけない!


 勝気な目の女の手から逃れたい一心で、朱浩宇はあとずさる。そして、夏子墨のいる部屋の開き戸に思いきりよりかかった。すると、うすく開けていた開き戸は、抵抗なく部屋のかなへ押しこまれてしまう。同時に、ささえを失った朱浩宇も、夏子墨たちがいる部屋にころがりこんだ。

 尻もちをつく格好で部屋のなかにはいった朱浩宇に、夏子墨と黒目がちな女が注目する。


「師弟?」


 夏子墨が座りこむ朱浩宇の名を呼んだ。

 名前を呼ばれた朱浩宇は、思わず夏子墨を見る。


 ――部屋のそとで盗み聞きしていたと、気づかれたかも。


 夏子墨を見つめたまま、朱浩宇はきまり悪く感じて黙りこむ。

 返事をしない朱浩宇を、夏子墨は見つめかえす。そして彼は、小さくため息をつくと口をひらいた。


「いいところだったのに……なぜ、はいってきたんだい?」


 たずねてくる夏子墨の態度には、驚きも、怒りもない。あるとしたら、あきれだろうか。

 覚悟していたのとは大いにちがう反応をかえされ、朱浩宇はぼうぜんとしてしまった。しかし、なぜか夏子墨への怒りがこみあげてきて「いいところだと? 馬鹿なのか!」と、理不尽にも声を荒げてしまう。そして、彼は感情のおもむくまま夏子墨をののしった。


「幽霊に体をべたべたと触らせるなんて、自殺行為だと知っているだろう? 女の色香に迷ったか? でなければ、妖術にでもかかっているのか?」


 ゆびを勢いよく夏子墨につきつけながら、朱浩宇は怒鳴る。彼が言った言葉は、彼がのぞきをしていた事実を示唆するには十分だろう。しかし、頭に血がのぼっている朱浩宇には、残念ながらまったく気づけなかった。

 夏子墨のあきれ顔は、いっきに苦笑いにかわる。


「師弟、あまり興奮しないで。きみは、早とちりがすぎる」


 朱浩宇をたしなめると、夏子墨は寝台からおりるのだろう。黒目がちな女を胸に乗せたまま、彼はゆうゆうと身をおこす。

 夏子墨の動きに驚いた黒目がちな女が「どうしてなの?」と、悲鳴じみた疑問の声をあげた。

 朱浩宇と夏子墨は、自然と黒目がちな女に注目する。


「あなた……どうして、わたしから目をそらせるの? まさか、わたしの魅了が……効いていない?」


 夏子墨をうろたえながら見つめ、黒目がちな女は自問自答じみた問いを口にした。


「効いてない?」


 朱浩宇は、黒目がちな女の言葉を繰りかえす。そして、なにかに気づいたようで、はたと納得顔になった。夏子墨が幽霊に触れながら悠然ゆうぜんとしていた理由を、朱浩宇はようやく見いだしたのだ。


 ――妖仙の血か!


 妖仙の血とは、夏子墨が身にやどす仙の血だ。


 人間が仙になるには、基本的に仙術の修行をする必要があるのだが、じつは例外もある。例外のひとつは、仙が子をなした例だ。全員がではないが仙の子のなかには、まれに生まれた時点で高い霊力をもつ者がいるのだ。


 ところで、さきほどから仙人とはいわず『仙』という言葉をつかっているのには、理由がある。それは『仙』になれるのは人間だけではないからだ。厳密にいうと、人間が仙になると仙人。人以外が仙になると妖怪仙人、または妖仙と呼ぶ。


 そして夏子墨は、人間の父親と妖仙の母親のあいだに生まれ、半分ではあるが仙の霊力を受け継いだ希少な人間なのだ。ちなみに、夏子墨と似た来歴をもつ仙は、善悪を論じずにいえば往々にして、大人物になっている。したがって青嵐派でも、夏子墨は注目すべき存在なのだった。


 よって、夏子墨の特殊な出自は、朱浩宇だけが知る話ではない。姚春燕はもちろん、青嵐派の人々のほとんどが知っている話だった。

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