第7話 夏子墨と遊女

 しゅ浩宇こううはひとり、廃屋のなかへと足を踏みいれた。


 建物のなかはまっ暗で、朱浩宇は苦労して壁ぞいを数歩移動する。すると、なにかがつま先に当たった。

 ひろいあげてみると、つま先に当たったのは古めかしい燭台しょくだいだった。ありがたくも使いかけの蝋燭ろうそくが取りついたままだ。

 手で印をむすんだ朱浩宇が、蠟燭にむけてまじない言葉を小声で唱える。彼が唱えたのは、青嵐派の弟子が最初に習う初歩的な呪い言葉だ。朱浩宇が唱えはじめるとすぐ、ボッと小さな音をさせ、蝋燭に火がついた。


 火のついた燭台を手にして、朱浩宇はあたりを照らす。すると彼の目の前に、二階へつづく階段があると分かった。

 つぎに階段の横を照らしてみる。照らしたさきは、大きな広間だった。広間のすみには、ほこりと蜘蛛の巣におおわれた食卓や椅子が積みあがっている。積みあがった家具から、以前はたくさんの客が飲み食いを楽しんでいたのだろうと、朱浩宇は察した。


 クス、クス、クス。


 ふいに女の笑い声が聞こえてくる。声に注意をはらうと、女の声にまじって男の声もかすかに聞こえた。


 ――子墨しぼく


 朱浩宇は、笑い声にさらに耳をすます。

 声は二階から聞こえてくるらしい。


 朱浩宇は物音をたてないよう慎重に、目の前の階段をのぼった。

 階段をのぼりきると、廊下の奥のほうにうす明かりが見える。燭台の光で廊下のさきを照らしてみると、似た部屋がいくつもあるようだ。そして、一番奥の部屋から明かりが漏れていると分かった。

 朱浩宇は息を殺して進み、明かりのもれる部屋の前に立つ。すると部屋のなかから、また笑い声が聞こえ、男の声も今度はしっかりと聞きとれた。

 男の声は、明らかに夏子墨だ。


 ――見つけた!


 目的を達成した高揚感で、いきおいよく扉を開けたい衝動がわきあがる。しかし朱浩宇は、かろうじて思いとどまった。

 理由はもちろん、部屋のなかから女の声がするからだ。


 ――女のほうが妓女の幽霊なら、様子をみるべきだ。


 音に気をつけながら扉を細く開けた朱浩宇は、そっと部屋のなかをのぞく。彼の目にまず飛びこんできたのは、部屋の奥におかれた寝台だ。寝台のはしにならんで座る男女のすがたも見える。男はもちろん夏子墨だ。しかし、彼の肩にしなだれかかっている女の顔は、朱浩宇の知らない顔だった。

 女の衣装は、朱浩宇がであった幽霊に似ている。とはいえ夏子墨のとなりにいる女は、肉づきがよく、黒目がち。おっとりとした印象だ。


 ――酒楼で会った男が言っていた幽霊とは、彼女だろうか?


 朱浩宇の考えが正しいとすると、髪がたや体つきが酒楼で会った男が言っていた女にちかい。


 ――師父のおっしゃったとおり、女の幽霊はひとりではないらしい。


 状況から、朱浩宇は確信を深めた。

 朱浩宇が隠れてのぞくうち、夏子墨が話しだす。


「こんな場所に連れこんで……お嬢さんは、わたしをどうしたいんだい?」


 女の長い髪をもてあそびながら、夏子墨がたずねた。

 夏子墨の言葉を聞いて、彼の肩に頭をあずけていた女は、ほんの少し身をおこす。そして、うえをむいて夏子墨を見ると、彼の質問には答えず「公子は、わたしをかわいいと思ってくださる?」と、質問に質問でかえし、いたずらっ子を思わせる笑顔をうかべた。ほほ笑みながら、彼女は夏子墨の肩をやさしく寝台のなかへ押す。

 女に逆らわず、夏子墨は寝台の奥へと移動し、彼のほうは女の質問に答えた。


「そうだね。かわいらしいお嬢さんだと思うよ」


 おだやかな口ぶりで言いながら、夏子墨はゆっくりと枕に背をあずけた。

 夏子墨の言葉を聞いた女は、顔をほころばせ「うれしい」と、とろけそうな声色で言う。それから、夏子墨の胸もとに手をのばす。彼女ののばした手は、なれた手つきで彼をやさしくなでた。しばらくすると、胸もとをなでる手が少しずつ下へとさがっていく。さげた手で夏子墨の手をとると、女は彼の手に顔をよせ、手の甲へ口づけを落とした。


 ――なぜ、れさせる! 死にたいのか?


 なりゆきを見守っていた朱浩宇は、心のなかで悪態をつく。同時に、目の前で繰りひろげられる醜態に、軽いめまいをおぼえた。


 幽霊と接触すると、人間は生気をうばわれ、最終的に衰弱して死にいたる。よって、幽霊に触れるのはさけるべきだと、仙術を学ぶ弟子ならだれでも常識として知っていた。


 ――たすけるべきだろうか?


 朱浩宇は、迷いながら開き戸に手をあてがう。しかし、彼は思いなおし、開き戸からゆっくりと手を離した。


 ――夏子墨が幽霊を退治できなければ、やつに差をつけられずにすむのでは?


 朱浩宇の脳裏を、また相手を思いやらない考えがよぎる。


 ――死なばもろともだ!


 本来なら『死ぬときはいっしょ』という義兄弟のちぎりにも通じるうつくしい言葉が頭にうかぶ。しかし今の朱浩宇にとっては、残念ながら夏子墨の足をひっぱる程度の意味しかなかった。


 ――でも、さすがに死なせてしまうのはまずい気がする。危なくなったら、たすけにはいろう。


 多少ではあるが罪の意識を感じた朱浩宇は、なけなしの自制心を働かせる。最終的な落としどころまで決め、朱浩宇は一人でうなずいた。そして、もうしばらく状況を見守る決断をした。


 朱浩宇が悪だくみをしているうちに、女は夏子墨にちかづきなおす。接近した彼女は、夏子墨の首すじに口づけを落とした。それから、夏子墨の胸もとにあらためて手をやると、今度は彼の上衣のなかに手をさしこんでいく。

 夏子墨は嫌がるでもなく、女にされるがままだ。

 女が好き勝手にするうちに、彼女の衣のほうも自然とはだけてしまう。もともと露出の多い衣装であるし、着つけも甘かったのだろう。今にも女のまっ白な肩があらわになりそうだ。


 男女のいる場所、距離、衣服のみだれ。すべてが、ふたりのあいだにおころうとしている関係の変化を、雄弁に物語っていた。

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