詠う泉

 森で迷い彷徨った末にたどり着いた先に、その泉はあった。


 鬱蒼と茂っていた樹々が唐突に途切れ、水面は光に溢れている。滾々と湧き出る水は絶えず波紋を作り、泉になんとも言いようのない奇妙な揺らぎを与えていた。よほど森の深いところまで入ってしまったのか、人の分け入った痕跡は見当たらない。しかし、泉の周囲はまるで不可侵の領域だというかのように森から切り取られていた。

 泉に近づくと、揺れる水面に歪んだ映し身が描かれた。覗き込めば、泉は何処までも透明で、そして、底が見えぬほどに深い。光が届かぬその先には暗い闇は横たわっていた。それは、まるで夜の闇のようであり、何処かへ続く扉のようにも見えた。

 水の手を浸す。痺れるほどに冷えた水が掻き乱され、水面に映りこんだ私の姿が消えた。代わりに現れたのは掌に乗って握れば隠れてしまうくらいの水の珠。

 水珠は音もなく浮かび上がり、硝子の割れるような音を伴い弾けた。空気に波紋を残し、生じた揺らぎは唄を奏でた。古い古い、何故か懐かしく優しい気分にさせられる唄だった。


 この辺りに伝わる御伽噺がある。

 昔々、人間と神々の関係が穏和であった頃、世界そのものの声を聞く事の出来る姫巫女がいた。風の声を聞き、樹々と心通わせ、神々とさえ言葉を交わしたと言う。そして彼女は、その全てを唄として人々に聞かせたのだと。

 語り部は伝える。その頃が最も人が世界と近しい友人であった時期だと。けれど、やがて神々は心変わりし、人間をモノとしか見なさなくなった。姫巫女が神々と言葉を交わす事もなくなり、風は止み、樹々は心閉ざし、世界は沈黙に沈み。

 姫巫女は故なき責を問われ、人から追われる身となり、放浪の旅を続け、最後は自分を受け入れてくれた唯一の泉に身を奉げた、と結ぶ。

 この泉がそうなのかは分からない。

 ただ、風によって散らされ、水面に落ちた木の葉によって生まれた水珠達の間で微笑み詠う女性の姿を幻視した。

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