歌姫

 扉を開けるとそこには、綿のような静寂がたゆたっていた。北海に吹く魔風のような冷たく固い緊張を含んだものではなく、これから起きる事を心待ちにした酷く浮かれた春風にも似た、祭の前の静けさだ。

 心地よく張り詰めた糸を断ちきってしまわぬように注意を払いながら壁に沿って前の方へ移ろうと試みる。宿を兼ねる酒場は元々そう広くなく、今は遥かに大勢の客が押し寄せていて、体を動かすだけでもかなり大変だ。私も難度か頭を下げながら漸く舞台が見える場所を見つけた。

 けれど給仕達はそんな事を気にした風もなくお客の間を静かに擦り抜けていく。その姿は優雅の一言で、あるいは彼らは実体を持っていないのだろうか、なんて言う感想さえ抱かせる。もっとも、葡萄酒を受け取る際に触れたその手は確かに血の通った人のものであったのだけれど。


 やがて店内の照明の一切が落とされ、まずは静かに静かに流れ出す。それは始まりを告げる歌だ。夜の始まりを、歌の始まりを、そして舞台の始まりを。歌は響く。船乗り達が固く信じる導きの星のように、強く強くけれど優しく染み渡る。

 長く響いた歌が不意に途切れ、曲調を変えて再び始まる。

 時に激しく、時に優しく、穏やかにあるいは悲しみに暮れて……。一人の兵卒と恋に落ちた女王を歌ったその歌は、彼女の唇から生き生きと流れ出し、相変わらず照明の落ちた舞台の上で、彼女はただ歌い続ける。

 窓から月や星の光が忍び込み、彼女の髪に僅かな輝きを宿らせるが、振り払うかのように髪は宙を泳ぎ宿っていた光が歌声にのせて客席へと運ばれる。運ばれ弾けて、歌声を更に彩る。何もかも、全てが彼女ではなく、その歌声を飾る為に存在する。それは、歌声こそが彼女自身であるからなのか、どうなのか。

 確かであるのは、ただ皆が彼女の事を『歌姫』と呼ぶ、その事だけだ。


 かくて歌は流れ続ける。

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